しかし天正元年(一五七三)四月に、武田信玄が死去したことで情勢は好転する。家康は反撃し、領国の回復活動を開始した。これをみた氏真は、駿河復帰の夢を家康に託すことにし、北条家のもとを離れて、家康を頼り、遠江浜松城に移住した。家康は当時、織田信長に従属する関係にあったから、それは信長の承認を必要とした。氏真は信長とは、それまで敵対関係にしかなく、しかも氏真にとって信長は父義元の怨敵にあたっていた。そのため氏真は、出家して信長に対して降参の作法をとって、敵意はないことを明示したうえで、家康の庇護をうけた。

 家康が、さらに信長が、氏真を庇護することを承知したのは、武田家との抗争にあたり、元駿河国主の氏真を擁することで、武田家に対し駿河支配の正当性を獲得できるからであった。氏真は、信長・家康から、駿河経略のうえは同国を与えられることを約束されたとみなされ、その後は駿河国主予定者として、国主相当の政治的立場を復活させている。天正四年には駿河への最前線拠点であった牧野城の城主に任じられた。これは氏真が駿河経略の先鋒を務める姿勢を表明したものであった。ところが実際には、氏真は牧野城にはあまり在城せず、基本は浜松城に在所した。理由は判明していないが、家康から何らかの役割を求められていたためと考えられるように思う。戦国大名家としての教養の指南にあたっていたのではなかったか。

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