遠江一国の経略を遂げ、遠江・三河二ヶ国の戦国大名になった徳川家康。その家康の遠江・三河統治のあり方は、今川家のそれを踏襲するものであった。また、今川氏真は武田軍によって駿河から退去を余儀なくされ、遠江懸川城に籠城したが、家康はそれを攻撃するも、すぐに氏真とそれを支援する北条氏政とのあいだで和睦を結んでいる。歴史学者・黒田基樹氏は、新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)で「家康が懸川城の攻略に拘らなかったのは、氏真とのかつての交流から生まれた、気心のようなものがあったように思う」と記している。家康にとって、氏真、そして今川家はどのような存在だったのか。同著から一部抜粋、再編集し紹介する。
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懸川城から退去した氏真は、駿河大平城、次いで相模小田原に居住し、北条家の庇護をうけながら、武田家を撤退させて駿河に復帰することを図った。しかし元亀二年(一五七一)、妻早川殿の父・北条氏康の死去を契機に、北条氏政は武田信玄と再同盟した。これにより氏真は、北条家のもとで駿河復帰を果たすことはできなくなった。家康はその翌年から、武田信玄から領国への侵攻をうけ、領国の半分以上を経略されてしまう。