徳川家康が少年期に今川家で「人質」として過ごし、酷い仕打ちを受けたかのような言説のため、今川氏真との抗争に勝利した後、今川家との関わりはなかったかのように誤解されている。しかし「家康の人生において、今川氏真・貞春尼きょうだいの与えた影響は大きかった」と歴史学者・黒田基樹氏は説く。今回、氏真の妹・貞春尼が徳川秀忠の女性家老(「上臈」)にして後見役であったという、新たな事実が確認された。黒田氏の新著『徳川家康と今川氏真』(朝日新聞出版)から一部抜粋、再編集し、紹介する。
* * *
秀忠の「御介錯上臈」に貞春尼を任じたのは、家康と考えられる。ただしそうした奥向きにおける人事権は、正妻が管轄していたから、本来ならば正妻の築山殿がおこなうべきことであったと考えられる。秀忠の誕生はこの年・天正七年四月七日のことであった。この時にはまだ築山殿は生存していた。秀忠の母は西郷殿(西郷相、三河嵩山西郷吉勝養女か、一五六二か〜八九)で、当初は家康の女房衆にして妾であったが、のちに秀忠が家康嫡男になったことで、妻の一人になったと推定される。西郷殿が家康に女房衆として奉公することになったのは、築山殿の差配のもとでのことであろう。
しかし秀忠の出産について、築山殿が承認してのことであったかは、わからない。正妻には、妾の選定や出産の承認などの権限があったとみなされ、正妻が承認しない出産の場合は、当主の子どもとして認知されなかったのである。秀忠は浜松城で誕生しているが、築山殿がそれを承認していたのであれば、出産は岡崎でのことであったはずと考えられる。四年前の次女・督姫(母は妾・西郡の方、一五七五〜一六一五)の場合は、わざわざ岡崎で出産したとみなされることからすると、秀忠の誕生は、築山殿の承認をうることなく、家康の独断によった可能性が高いと思われる(拙著『家康の正妻 築山殿』)。