徳川家康像。東京大学史料編纂所所蔵

 この時、家康と築山殿・信康との関係はすでに悪化していた。それは前年の天正六年からみられていた。それが「築山殿・信康謀叛事件」として、この年天正七年八月に、家康が信康を追放・幽閉し、最後は自害させ、築山殿を幽閉し、最後は築山殿自ら自害するにいたる。事件の詳細をここで記すことは省略し、詳しくは拙著『家康の正妻 築山殿』を参照いただきたい。したがって秀忠誕生時には、家康と築山殿の関係は悪化していたと考えられるので、家康が秀忠誕生に関して築山殿に承認を求めることはなかったと思われる。そうであれば家康は、秀忠の誕生を独断で認め、それにともなってその上臈の人選も、家康がおこなったと考えられるであろう。

 家康が秀忠の上臈に、貞春尼を選んだのは、彼女が名門戦国大名家の今川家の出身であったからに違いない。家康は、遠江・三河二ヶ国の戦国大名として存在するようになったものの、所詮は国衆からの成り上がりにすぎなかった。そのため徳川家を戦国大名家として確立させるには、それに相応しい文化・教養の獲得が必要であった。それを修得するのに、今川家は恰好の存在であったに違いない。しかも氏真とその家族は、現に家康のもとに存在していたのであった。家康がこれを活用しない手はなかったであろう。

 しかも秀忠の誕生は、築山殿・信康との関係が悪化していて、信康処罰も検討されていたなかでのことであったろう。家康は秀忠誕生をうけて、これを新たな嫡男にすることを考えたと思われる。幼名を「長丸」と付けたのも、新たな嫡男としての意味合いであったに違いない。それゆえ秀忠を、戦国大名家の後継者に相応しく養育する必要があり、そこで貞春尼を上臈に任じて後見役としたのだろうと考えられる。貞春尼はこの時、三八歳くらいであった。しかも未亡人として、氏真に厄介になっていた存在であった。秀忠の後見役に、それ以上の適任はいなかったといいうる。

 こうして貞春尼は、秀忠の養育係になった。これは家康が、今川家の存在を決して忌避していたのではなかったことを示し、むしろ頼りにしていたことを示している。

 なお家康と築山殿の関係悪化について、江戸時代成立の史料では、家康が今川家を裏切り、その怨敵である織田家と親しくしたことを原因とする言説がみられている。しかしこの時、今川家当主の氏真とその家族は、浜松の家康のもとにあった。江戸時代成立の史料は、このことを完全に見落としている。それらの言説が、江戸時代に作り出された創作にすぎないことは確実であろう。

 また築山殿にとっても、氏真とその家族が家康のもとにいることは、家康が今川家を尊重しているものとして認識され、実家の宗家が身近に存在していたことは、心強くもあり、安心していたことであったろう。家康と築山殿の関係悪化は、決して家康による今川家に対する否定的な態度から生じたのではなかったことは確実であろう。実態は、天正三年四月頃に起きた武田家への内通事件であった「大岡弥四郎事件」に、築山殿も関与して武田家に内通したことが原因であったとみなされる。

●黒田基樹(くろだ・もとき)
1965年東京都生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。駿河台大学教授。著書に『お市の方の生涯』『徳川家康の最新研究』(ともに朝日新書)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』『家康の正妻 築山殿』(ともに平凡社新書)、『関東戦国史』(角川ソフィア文庫)、『羽柴家崩壊』『今川のおんな家長 寿桂尼』(ともに平凡社)、『戦国大名・伊勢宗瑞』『戦国大名・北条氏直』(ともに角川選書)、『下剋上』(講談社現代新書)、『武田信玄の妻、三条殿』(東京堂出版)など多数。

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