なかでも最も大きな要素をなしたのは、秀忠の上臈として貞春尼が位置したことであろう。このことはこれまで知られていなかった新事実で、先に取り上げた「今川家瀬名家記七」所収「瀬名氏系図」によって初めて確認された。
ここに貞春尼について、「秀忠公御介錯上臈」と記されている。この内容は、これまで知られていた今川家関係の系図・軍記史料には全くみられていないことであった。「介錯」というと、切腹の際に死を助けることとして知られているが、他にも「後見、介添え」という意味がある。ここでの意味はもちろん後者である。そしてこれは、その表現から、誕生後すぐからのことと理解される。これにより貞春尼は、秀忠が誕生してすぐに、その上臈として、すなわち女性家老として、秀忠の後見役を務めたことが知られる。
貞春尼が、徳川家に女房衆(女性家臣)として奉公したことについては、すでに小林輝久彦氏(「今川氏女嶺松院について」)によって指摘されていたが、そこでは彼女の地位までは判明していなかった。しかしこの記載によって、その立場は女性家老たる「上臈」であったことがわかったのである。そして貞春尼の女房衆としての活動は、慶長十六年(一六一一)まで確認されていて、その死去は翌年のことであった。このことから貞春尼は、秀忠が誕生して以降、自身が死去するまで、上臈として秀忠を後見したのであり、それはすなわち、彼女こそが秀忠の「育ての親」にあたっていたと認識できる。