まず第一章で取りあげられるのが、村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」。主人公の俳優、家福悠介は妻を病気で亡くし、喪失感を抱えた人物として描かれる。著者は同作を「ケアを必要としている男が近代西洋的な『強い自己』を背負うあまり、その苦悩を他人と(……)なかなか分かち合えない」物語として措定する。ケアがフェミニズムの枠組みで議論される場合、対象は女性に限定され、男性は排除される傾向があった。だが著者は男の苦悩にも光を当てる。〈多孔的な自己〉という概念が度々参照されるように、著者は多様な方向性に開かれた自己という観念を柔軟に用いて、ケアは女性にまつわるものだという私たちの固定観念を揺さぶり、性差を超えたケアの可能性を探求する。
そのため、一見マッチョな映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』さえも、氏の分析の対象となる。荒野の要塞を取り仕切る首領イモータン・ジョーは独裁者のような振る舞いをしているが、彼は同時に「自らの弱さを押し隠し強さだけを可視化させる現代人の象徴」であると指摘する。つまり、同作は今日の競争社会を極限化した作品とも言えるのだ。
それゆえ、本書では新自由主義的な今日の社会にも言及がなされるが、あくまでも議論は文学作品を通して展開される。なぜなら「強者として生きている人間にはなかなか見えてこないケア実践が確固としてあり、文学には、それを補完する想像力の世界が広がっている」からだ。