文学ならではの可能性とは、現実の感覚では捉え難いものを描くことだ。そのため、本書ではSFにも一章が割かれている。映画『インターステラー』は気象災害で地球での居住が困難となり、宇宙に移住可能な惑星を探す物語だが、そこでは生の可能性をめぐって多様な想像力が駆使されるだけではなく、人工知能という他者への眼差しについても言及がなされる。

 人工知能以上に遠い他者とは死者である。それは科学的な言説では扱い難いものであり、文学作品だからこそ接することができるものである。第五章ではトニ・モリスン、平野啓一郎、石牟礼道子の作品が論じられる。存在していないかのような弱者の存在がいつくしみとともに描かれている点が指摘され、個々の作品の魅力とともに、想像力の繊細な様相が描き出される。

 このように、本書は「ケア」という観点を設定しながらも、様々な他者に思いを馳せるという文学の基本的な機能を見事に浮かび上がらせており、芸術表現の可能性を感じさせるものとなっている。それが可能となったのは、著者が小説や映画を綿密に読解し、言葉の襞にまで分け入って、他者の言葉に耳を傾けているからだ。だがそこで著者の営みは終わることはない。言葉にならなかった人々の想いを(自身の傷を含めて)掬い上げ、批評という形にしたのだ。それによって、弱さを口にしてもいいという生き方の実践ともなっている。

 本書で用いられる意味での「ケア」が社会に広く浸透すれば、他者との繋がりも増え、私たちの生もより豊かなものとなるだろう。