智弁学園、智弁和歌山の両校で甲子園歴代最多の通算68勝を挙げたのが、高嶋仁監督だ。

 当初は監督になるつもりはなく、3年間の約束で智弁学園のコーチを引き受けたが、3年目に前監督が突然辞任したことから、急きょ後任に指名された。

 悩んで相談した大学時代の恩師から「とにかくやってみろ」と背中を押され、26歳で監督に就任。“打倒天理、郡山”を目標に、日々の練習を通じて部員たちとコミュニケーションをとることの大切さも学び、77年のセンバツ4強など、チームを春夏3度の甲子園に導いた。

 その後、同校野球部長を経て、80年に開校3年目、創部2年目の兄弟校・智弁和歌山の監督になった。

 だが、チームがある程度形をなしていた智弁学園に対し、当時の智弁和歌山は練習試合でも勝てない同好会レベル。春夏連覇達成の“王者”箕島が富士山よりも高く見える「ゼロからのスタート」だったが、個々の力に合わせた練習で選手を手塩にかけて育て、3年目の夏に県大会4強。以来、有力選手も入学してくるようになり、85年春に甲子園初出場をはたした。

 その甲子園ではなかなか勝てず、92年夏まで5連敗。だが、「また負けに来たんか!」というスタンドのヤジに「甲子園に出るために一生懸命やって来たが、甲子園で勝つために一生懸命やっていなかった」と思い当たり、常に甲子園を意識した練習法を導入。93年夏に初勝利を挙げると、翌94年のセンバツで初優勝。以後、春夏併せて35回出場。優勝3回、準優勝4回の黄金時代を築き上げた。

 広陵、福井(現福井工大福井)、京都外大西の3チームで甲子園勝利を実現し、冒頭で紹介した持丸監督(常総学院時代は未勝利)と肩を並べるのが、三原新二郎監督だ。

 選手の個性を引き出し、相手の虚を突く臨機応変な采配は、同姓のプロ野球監督・三原脩にちなんで“三原マジック”と呼ばれた。

 京都外大西時代の05年春、練習試合で負けが込み、前年のチームの1年分の負け数を上回ると、三原監督は「考えてプレーしているように見えない」と3年生全員に練習参加禁止を命じた。

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「2勝で十分」だったチームがまさかの躍進