長州軍は3隊に分かれて、御所を目指し進軍した。正確な兵数は不明だが、劣勢だったと思われる。一方の幕府軍は会津・桑名を中心に約3200だった。薩摩の援軍も力強かった。一橋慶喜が指揮をとった
長州軍は3隊に分かれて、御所を目指し進軍した。正確な兵数は不明だが、劣勢だったと思われる。一方の幕府軍は会津・桑名を中心に約3200だった。薩摩の援軍も力強かった。一橋慶喜が指揮をとった

 会津藩を救ったのは、乾御門を守る西郷隆盛率いる薩摩藩兵だった。駆け付けた砲兵隊が国司隊と来島隊に激しい砲撃を加えたため、負傷者が続出する。来島も重傷を負い、自害して果てた。国司隊も退却した。

 一方、福原を取り逃がした新選組は伏見に戻っていたが、御所の方角から大砲の音が激しく聞こえた。屋根に上がって確認したところ、御所に砲弾が着弾し、黒煙も上がっていた。

 近藤は新選組を率いて京都に入り、福井藩が守備する堺町御門の前に布陣した。山崎を出撃した益田隊が堺町御門に迫ったものの、同藩兵の守りは堅く、長州藩は近くの鷹司邸に籠っていた。

 よって、新選組は会津藩とともに火を掛けたが、この時の戦いで、長州藩士の久坂玄瑞が自害して果てている。益田隊も敗走した。

 こうして、京都での激しい市街戦は、会津・薩摩藩側に凱歌が上がった。敗れた長州藩兵は、山崎の天王山を指して落ちていく。

 二十一日、会津藩兵は新選組とともに天王山へ向かい、翌二十二日より新選組が先鋒となって天王山を攻め上った。新選組は抜刀して敵陣に攻めかかったものの、一斉射撃に遭って退却を余儀なくされる。

 一方、会津藩は銃隊をもって応戦した。数時間にわたって激しい銃撃戦が交わされたが、結局は多勢に無勢であり、長州藩兵は陣営に火を放って敗走した。ここに、蛤御門の変という名称で知られる禁門の変は終わった。

 二十三日、新選組は大坂に下向した。大坂には長州藩の屋敷があったため、屋敷内のほか市中に潜伏していた長州藩士を捕縛し、町奉行所に引き渡した。その後、壬生の屯所へ戻っている。

 八月十五日、老中・稲葉正邦から松平容保に対し、禁門の変での会津藩と新選組の働きを讃える将軍・家茂の名による感状が与えられる。新選組の活躍は、将軍からも賞賛されたのである。

 池田屋事件で名をあげた新選組だったが、禁門の変でも軍功をあげたことで、その名はさらに知られるようになったのは言うまでもない。新選組は絶頂の時を迎えたが、それは長く続かなかったのである。

*週刊朝日ムック『歴史道VoL.28新選組興亡史』から抜粋

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