幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。尊攘派の浪士はもちろん、市井の人々からも畏怖された存在だったという。その武名を轟かせた5大事件の舞台裏を追う。
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多数の藩士を京都に潜入させた長州藩では巻き返しの機会を窺っていた。奇しくも池田屋事件の前日にあたる元治元年(1864)六月四日に京都出兵を決定したが、事件の報が入ると、藩内は憤激する。
瀬戸内海を船で進んできた長州藩兵は、同二十一日に大坂へ到着した。二十四日、京都南郊の伏見の長州藩邸に家老・福原越後率いる藩兵が入っている。そして二十七日には、藩士・来島又兵衛率いる藩兵が嵯峨の天龍寺に、七月九日には家老・国司信濃率いる藩兵が山崎の天王山に、同十四日には家老・益田弾正率いる藩兵が男山の石清水八幡宮に陣を構えた。
京都の南方と西方から軍事的威圧をかけることで、朝廷から入京許可を得ようと目論んだのである。朝廷内では依然として長州藩を支持する公家たちの意見の方が優勢であり、入京許可を得た後に、宿敵の会津藩との決戦に臨む腹づもりだったのだろう。これに反発する会津藩や桑名藩そして薩摩藩は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜のもとに結集した。
十七日夜に開かれた朝廷の会議で、十八日中に京都から退去するよう、長州藩に命じることが決まった。河原町にはまだ長州藩邸が置かれていたが、留守居役をはじめ藩邸内の藩士たちには退去を命じた。
十八日夜の御所での会議では長州藩討伐が決定される。慶喜は各藩を部署につかせたが、すでに長州藩兵は京都に向かいつつあった。十七日に石清水八幡宮で軍議を開き、容保討伐を旗印に京都への進軍を決議していたのである。
十九日の未明より開戦となるが、戦端が開かれたのは伏見であった。
長州藩・福原隊は伏見藩邸を出撃して京都市中を目指したが、伏見街道に布陣していた美濃大垣藩兵の砲撃を受けて、あっけなく総崩れとなる。福原も負傷して山崎へと落ちのび、伏見での戦いは幕府側の勝利に終わった。
会津藩兵の200名とともに伏見に出陣していた新選組は敗走した福原隊への追撃戦に加わっている。
福原隊は入京できないまま潰走したが、国司隊などは市中への突入に成功し、市街戦が始まる。国司隊は中立売御門、来島隊は下立売御門から御所内へと迫った。会津藩が守る蛤御門はその中間にあたっていた。
国司隊は中立売御門を守る福岡藩兵を潰走させ、門内に乱入する。下立売御門を守る桑名藩兵、そして蛤御門を守る会津藩兵は国司隊と来島隊の猛攻に押され、極度の苦戦に陥った。銃弾や砲弾が激しく飛び交い、その流れ弾や激しい爆音は御所内の公家たちを恐怖のどん底に陥れた。