3年目の夏ごろに「今年度中に博士号とるんだよね」って先生に念を押されて、だって翌年には子どものお受験が待っているから、最後の半年はすごい一生懸命がんばった。12月には論文を出して、無事に博士号をいただけました。それでダイナックスに復職し、長男の中学受験の最終段階に突入したわけです。

――結果はどうだったのですか?

 2人とも私立の中高一貫校に受かりました。それで、次は自分のことを考えようとなった。実は、博士号を取ったとき、卒論と修論の指導教官で、博士論文審査の副査もしてくださった先生にお礼に行ったら「これからどうするの?」って聞かれたんです。「別に、ダイナックスに戻るだけです」って答えたら、「え!」って驚かれて。「大倉さんにとって博士号って何なの?」と聞かれ、「お茶やお花のライセンスと同じなの? もうちょっと生かすことを考えたら?」と言われた。

 確かにそうだなと思って、お受験をクリアしてから就職活動を始めました。私はもともと塾の先生になりたいと思っていたんですけど、大学の先生もいいかも、と思った。でも、論文が少ない。それでもとにかくいっぱい応募して、いっぱい落ちました。

2005年夏の大倉研究室のメンバー=芝浦工大大宮キャンパス、大倉典子さん提供
2005年夏の大倉研究室のメンバー=芝浦工大大宮キャンパス、大倉典子さん提供

 そうしたら、芝浦工大が新しく情報工学科をつくりたいということで2人募集していた。2人だったら目があるかもって応募して、面接を受けたら、翌日、採用の連絡があって教授だっていうんでびっくりしました。後から聞いたら、情報工学科だからプログラミングを教えてほしいわけですよ。でも、SEの人はふつう博士号を持っていない。私は博士号を持っていて、しかもSEとして長く働いていたからプログラミングを教えられる。だからベストマッチだったんですね。

――なるほど。

 入ったときは工業経営学科で、これを情報工学科に衣替えする方針で、徐々に情報系の先生を増やしてきたんですけど、反対する先生も多いという状況でした。とくに「情報工学科」という名前に対しては多くの学科が反対していた。工学部の教授会で私が発言すると、女性の発言ということで反発を食らうだけだから、大倉先生は絶対発言しないでくださいって言われた。

――え~、それはひどいですね。女性の先生は何人いたんですか?

 工学部全体で3人だったかな。男性は百何十人いた。とにかく私は教授会で発言せず、でも、根回しとか、そういう裏ではがんばりましたよ。

 私ね、教授会で話を聞いていて、なんか自分の親の世代の会議に迷い込んじゃったみたいだと思った。1世代前の、「女性は一人前の人ではない」という感覚です。それでも、2年後に情報工学科ができました。そうすると、女性が主任のほうがパンフレットを作るときも映えるからとか言われて、私がいきなり学科主任をやらされた。

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