――そのころに東大の博士課程に入ったんですよね?

 そうそう、子どもの中学受験の前です。大学院を受けるときは推薦書がいるんです。それをダイナックスの社長に書いてもらった。でも「仕事」と「学生」と「母」の三足のワラジをはくのは無理だと思ったから、受かったら休職させてくださいってお願いした。

◆「博士号が取りたい」が先 何を研究したいかは明確ではなかった

――へ~、それを承知して推薦書を書いてくれたんですか。

 わかったよ、という感じ。同じ計数工学科の先輩にあたる人です。夫が米国勤務になったときも1年ちょっと休職させてもらいました。

 1992年に、東大の先端科学技術研究センター(先端研)が新しい専攻を作って社会人博士を募集するという新聞記事が出たんです。「これだ!」と思いました。だって、その年から3年間なら、上の子は3、4、5年生で、下の子はちょうど小学校に入学するので、最初の1年間は2人とも学童(保育)です。学童なら保育園と違ってお迎えがいらない。2人とも勝手に帰ってくる。そして上の子が6年生になる前に終えられる。このタイミングしかない、って思った。

――どうして博士課程に行こうと思ったんですか?

 主人が論文博士を取ったんですよ。私が子育てしながらSEとして働いていたときに。私だって取るはずだったのにってすごいショックでした。だから、「博士号を取りたい」がファースト。何の研究をしたいというのは明確ではなかった。ただ私は卒論も修論もヒトの聴覚と機械についての研究をしていたので、結局、バーチャルリアリティーの研究を先導した舘暲(たち・すすむ)先生のところで人間の聴覚特性をバーチャル空間で調べる研究をやることに決まった。

 でも、夕方5時には大学を出て、家で晩御飯を作らないといけない。夫は「昭和の人」で、家のことはすべて私に任せていましたから。ほかの大学院生と比べたら、半分くらいの時間しか研究していないので「パートタイムスチューデント」って自称していました。

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「大倉さんにとって博士号って何なの?」