全部自分で作るしかない
新井さんがダゲレオタイプに興味を持ったのは2003年。東京綜合写真専門学校の授業で知ったことがきっかけだった。
「ドイツの思想家・ヴァルター・ベンヤミンが著書のなかで『ダゲレオタイプだけが、他の写真と違ってオーラがある』と、書いていたことも気になった。そこまで言うのだったら、実物を見てみたいと思った」
ところが当時、国内でダゲレオタイプの実物を見る機会はほとんどなかった。新井さんは旅行で訪れたヨーロッパで、初めて実物を目にした。
「衝撃を受けました。写真学校の教科書やインターネットでダゲレオタイプを見ると、『ああ、こんなものか』と思ってしまうけれど、実物は全然違った」
写真創成期の技法はこんなにすごいものだったのか、と感銘を受けた新井さんは、自分の手でダゲレオタイプを写してみようと思った。ところが、具体的な方法を記した文献が見つからない。
「五里霧中、というか、情報がまるでなかった。でも、それは『誰もやっていないぞ』、ということで、余計に興味を持った」
新井さんは銅板に銀メッキをしてもらえる会社を探した。薬品のガスを銀板にあてる容器は自作した。
「ダゲレオタイプを始めると、『売っていないものって、あるんだな』ということを強く実感しました。デジタルも、フィルムも、現代の写真は市販品やサプライチェーンに依存している。ところがダゲレオタイプで写そうとすると、全部自分で探すか、作るしかないんですよ」
ビギナーズラックで衝撃
撮影にこぎ着けたのは04年。写真学校を卒業した直後だった。
「ビギナーズラックという感じで、最初の1枚が偶然写ったんです。それが本当に奇麗で、また衝撃を受けた」
新井さんは、絵を描いていた母親とともに、ダゲレオタイプの小さな個展を開いた。それがのちに作家の道を歩むきっかけとなる。
ところが、その後の2年間は「暗黒時代だった」と漏らす。
「広告写真会社に就職したんですけれど、いわゆるブラック企業だった。オーバーワークで病気になって、死にそうになった」
病気から回復すると、怒りがフツフツと湧き上がってきた。もう2度と商売の写真の世界には戻らないと、心に決めた。
「なぜ06年から作家活動を開始したかというと、いきなり横浜美術館に招かれたんです。美術館に通いながら作品をつくって、それを展示してほしい、と依頼された」
小さな個展を開いた際、作品を目にした横浜美術館の職員がいたという。それで、新井さんに声がかかった。
「本当に、その細いつながりだけです。ありがたいことです」
まだ、体調は元には戻っておらず、新井さんはつえをつきながら美術館に通った。
「死にかけた後、ぼくには何も残っていなかった。でも、人に会いたいと思った。会場に来てくれた人と話をして、撮影した。技術は未熟で、あまり写らなかった。まあ、リハビリみたいな感じでしたね。まだ、ダゲレオタイプで何かをしたい、という気持ちもそれほどなかった」