そこからさらに、島のほぼ最西端の岬、沙渓堡に向かった。アモイがよく見えるという。
島の道を進むと八二三砲戦勝利記念碑が見えた。これは1958年8月23日の砲撃戦で、中国国民党が中国共産党の侵攻を阻止した記念碑だった。大きな砲弾型のモニュメントだ。その先に八達楼子という城郭を模した門があった。これは抗日戦争を記念した建物で、台湾の中国国民党が1963年に建てていた。
小金門島は太平洋戦争後の国共内戦の記念碑ばかりだった。こういう風景のなかを進んでいると、20年ほど前に初めて訪れた金門島の情景が蘇ってくる。あのころの金門島も戦跡ばかりだった。
当時の台湾では、金門島ツアーへの参加が勧められていた。台湾の国民党の軍隊が中国共産党の軍隊と対峙し、台湾を守ったのかを学習する島だったのだ。そのために戦跡は整備され、多くのツアーが企画されていた。このツアーに参加する公務員は有給扱いだったといわれる。
しかし金門島を訪ねる台湾の人の裡(うち)には別の思いもあった。
それは密輸と郷愁だった。
最初に金門島に泊まった日の朝のことをいまでも覚えている。朝、ホテル前の駐車場から聞こえてくる声で目が覚めた。そこには数台のワゴン車があり、100人は超えているであろう宿泊客たちが囲んでいた。なかをのぞくと、お茶の塊やカートンに入ったタバコ、果物などが積み上げられていた。
すべて中国からの密輸品だった。セブンスターの10個入りカートンの値段は、台湾で売られているものの2割ほどの値段だった。お茶はもっと安いのかもしれない。客のひとりが説明してくれる。
「セブンスターは中国内でつくられる模造品。闇タバコです。親戚から頼まれて。なにしろ安いからね」
夜、対岸のアモイから小船に載せられて金門島に運び込まれるのだという。
そういえば、昔、金門島に向かう飛行機のなかで、果物についてのこんなアナウンスも流れていた。