乾電池を辞めて、お笑い芸人で俳優、脚本や演出を手がける九十九一(つくもはじめ)のもとに集まるようになる。ワハハ本舗出身の俳優・岩谷と出会ったのはこのときだ。居酒屋でアルバイトをしながら、ホテルで開催されるミステリーイベントに出演したり、「もし白木屋に尾崎豊がいたら」などネタを作っては、お笑いのイベントにも参加したりした。

 九十九との縁で出会ったのが俳優で脚本・演出家の村松利史だ。ここから数年間、村松のもとで岩谷とふたり、「狂気のような」(岡部)修業時代を過ごすことになる。

「村松さんは、徹底的に『おもしろいこと』にこだわる人なんです。公演も決まってないのに『明日までにホン(脚本)書いて』と毎日言われる。『もっとおもしろくならんか』『もっともっと』と、食事も忘れてやり続ける。みんな付き合えずにバタバタ倒れていって、気がついたら岩谷さんとオレだけになっていた」(岡部)

 まさに千本ノック状態。しかし言っていることは正しい。「役のノリとか空気が全然、出来上がってないよ!」とダメ出しをされ、歯を食いしばって食らいついた。「おもしろい」とは単に笑わせることじゃない、ともわかってきた。どんなに残酷な悲劇でも心に響けば、人は「おもしろかった」と言う。とにかく「おもしろくある」ことが命題になってきた。すでに30歳になっていた。

■売れることをあきらめたら人生が大きく変わり始めた

 村松の勧めで舞台の世界に入ったのが、当時売れっ子CMディレクターだった山内ケンジ(64)だ。2004年に山内は劇作家として「城山羊(しろやぎ)の会」を立ち上げ、岡部は初回公演から岩谷と参加した。山内の演出は「とにかく、自然に、普通にやって」。ここで岡部はまた壁にぶつかった。

「おもしろい」に執着するあまり、普通に立っていることができない。普通、が難しかったのは、自身が「普通」だという自覚からでもある。中肉中背、見た目に特徴がない自分は奇抜なことをするしかないと思っていた。芝居がうまくいかない、オーディションに全然受からない、誰も自分に気づいてくれない。当時は鬱屈した思いを、酒場で俳優仲間と分け合っていた。岡部は言う。

「世間が悪い、事務所が悪い、CMのオーディションなんてあんなん最初っから決まってるんよ!とか、全部自分から遠いところのせいにして、傷をなめ合ってたんです。おもしろくない自分に気づいてしまったら、もう終わり。だから自分に向き合うことを避けていた」

 さすがにこのままじゃ何も変わらない。そう思い始めていたとき、城山羊の会のメインキャストだった故・深浦加奈子に言われた言葉がある。

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