そして98年12月12日、政府は日債銀の一時国有化を決め、東京・永田町の総理府庁舎にあった臨時金融再生等担当室へ東郷頭取を呼んだ。頭取用の車でいつものように助手席に座って一緒に向かうと、カメラの放列に迎えられ、記者たちにもみくちゃにされた。どうにか抜けてエレベーターで担当室の階で降りると、またカメラの放列。頭取にテレビカメラがぶつかるのを防ぐのに、懸命だった。

 国有化の通告を受けた東郷さんは本店へ戻り、資金繰りなどの状況を確認し、国有化受け入れを表明しなかった。だが、翌朝の小渕首相の決定を受けて「金融市場を混乱させるわけにはいかない。はなはだ遺憾だが、決定に従う」と判断、東証で記者会見を開く。冒頭の場面だ。

 東郷さんは退任後、粉飾決算など証券取引法違反の疑いで逮捕され、1審、2審で有罪判決を受けたが、最高裁が判決を破棄して高裁へ差し戻し、2011年9月に無罪が確定する。

 裁判が始まった直後、自分は外資系証券へ転じた。留学から帰ってやりたいと思った「資本市場の仕事」に、10年たってたどりつく。でも、ファミリーレストラン大手のロイヤルにいた日債銀の先輩に口説かれ、04年4月に移り、執行役員・総合企画部長兼法務室長に就いた。

■ロイヤルへ転身 「現場」へ近づき求心力を保つ

 日本経済はバブル崩壊後の低迷が続いていたが、ロイヤルは消費者の生活様式の多様化に応え、ファミレスとは別の外食企業を次々に買収し、「食」と縁の深いホテルの展開にも力を入れた。経営を支える柱を何本かに増やす多角化戦略、その道筋を描くのが、役割だった。

 ロイヤルへきて19年。持ち株会社制にしたら、個々の子会社が勝手に動いていいと誤解し、空中分解しかけたこともある。年長揃いの子会社の社長たちを訪ね、丁寧に説明し、求心力を取り戻した。本社での仕事が中心で「現場の声」に遠くなるのを補うため、疑問を示す社員がいれば自室に呼んで丁寧に説き、遠くにいる社員には意を尽くした長文のメールで答えた。

 10年3月に44歳で社長になると、2年連続の最終赤字からの脱出に、拠点へ赴いて経営状況を説明。一緒に何をしないといけないかの質疑応答を、重ねた。16年3月に会長に退き、経営のアドバイス側になっても、参加を希望する社員たちと「10年後の会社の姿」を考える会を主宰している。

 どれも、東郷さんから学んだ「使命感」の軌跡だ。

 会長室に、1本の万年筆がある。日債銀を辞めるとき、東郷さんから贈られた餞別だ。大事な書類へのサインには、必ず使っている。目をやれば、「使命感」という言葉が浮かぶ。(ジャーナリスト・街風隆雄)

AERA 2023年5月15日号