留学後は念願の国際業務(写真:本人提供)
留学後は念願の国際業務(写真:本人提供)

■高校の剣道部で優しい先輩に稽古の順を計算

 1965年12月、神奈川県鎌倉市大船で生まれる。中学1年のとき、祖父母が住む横浜市鶴見区へ転居した。校内暴力の増加が問題だった時期、商工業地にあった転校先は荒れていて、生徒間の勢力争いが日常的に起きていた。それに巻き込まれぬよう、うまく生き抜く道を目指す。「効率優先」の生き方を選ぶ志向が、生まれていた。

 県立横浜翠嵐高校に進み、剣道部に入る。ここでも、その志向が表れる。部活仲間に「先輩にかかっていく稽古のとき、菊地はどの先輩のところに並んだら一番やさしく相手をしてもらえるか、常に意識して動いている。ずるい」と言われた。

 大学入試では、3科目だけ勉強すればいい学科を目指す。88年4月の就職では、採用数が少なくて希望する国際業務に就ける可能性が高い日債銀を選ぶ。最初に配属された名古屋支店では、都市銀行と違って客が数えるほどしか来ない預金担当になると、カウンターの下に英会話の本を置いて勉強する。銀行内の留学試験では、競争相手が少ないフランス留学を志望して合格、入行4年目で渡仏した。

 パリ郊外のビジネススクールで経営学修士(MBA)コースを修了して帰国、国際部門で外貨の調達や融資配分を考える念願の業務に就いた。だが、やがて不良債権問題が日本の金融界を覆い始める。信用不安から邦銀が海外で外貨を調達する金利が上昇、収益を圧迫した。

 毎朝6時半に出社し、外貨を調達していたロンドン、シドニー、ニューヨーク、香港からのファクスを集め、どのくらいの金利や期間で調達できたかをチェック。報告書を毎日、秘書室や大蔵省(現・財務省)へ届ける。そんななか、97年初夏に、頭取昇格が内定した東郷さんの秘書になる内示を受け、仰天した。まだ31歳、予想もしなかった。秘書の仕事の主語は、仕える相手。自らの「効率優先」の歩みは、終わった。

■カメラの放列に頭取をかばった国有化通告の日

 メディアに、いくつもの金融機関が不良債権の膨張で行き詰まる、との観測記事が続く。いわゆる「金融危機」を迎える直前で、長銀とともに株価もたたかれた。翌年には国会で危機回避への金融再生法が成立し、長銀の一時国有化が決まる。

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