母・光子は娘の死を悼み、同号に「遠く離れてしまった星」と題する手記を寄せている。
<私がこの世を去るまでは、お互いに母娘として結びあう、そのしあわせが続くことと信じ切っていたのです。それだのに、わずか二十二年間で、断ち切れようとは……>
哀しみと無念を滲ませながら、気丈にこう綴る。
<美智子さん。あなた方は、国会構内で抗議集会をもとうとして、中にはいりました。私は、このことを認めます。五月十九日以後の国会議事堂には、もはや今までの権威は認められません。それは「むくろ」と化しているのです。その構内にはいって、抗議集会をもつことは、決して悪いことではないはずです。だれもがしたいのだけれど、ただあの警察の暴力が恐ろしいので、できないだけだと思います>
戦後的な体制が終わりを告げ、日本は高度経済成長をひた走る。右肩上がりの時世にあって、年功序列や終身雇用は企業の業績拡大に寄与したことだろう。63年11月8日号の「55歳は働きざかり?」と題する記事は、70歳までの雇用機会の確保が企業の努力義務とされている現在から見ると、隔世の感を禁じ得ない。
記事中の日経連(現在は経団連に統合)が実施した調査によれば、傘下の400社中387社が「定年制あり」と答え、そのうち303社が男性の定年を55歳としている(61年3月末時点)。当時、多くの企業が定年を55歳と決めていたが、日本人の平均寿命が大幅に延びたこと(当時は男性66歳、女性71歳)、晩婚化や大学進学率が高くなり子どもの養育年齢が延びたことなどを理由に、定年延長を求める機運が高まったという。
■立て籠もり犯が記者たちと談笑
当時の全繊同盟(現・UAゼンセン)幹部がこうコメントしている。
<「こんどのように定年延長一本で真正面から闘争した例は、ないんじゃないですか。しかも千三百社四十五万人の組合員が、いっせいに定年延長をかちとったのは、“画期的”といっていい」>