その弔辞の作成に他人が関わったのか否かは菅氏が一番よく知っているのであり、玉川氏の発言が「菅氏の弔辞が演出のために他人が作ったもの」という趣旨と認識し、それが、真実ではないと考えるのであれば、菅氏本人が調査を請求することになるはずだ。
この点に関しては、テレビのワイドショー等に出演している政治ジャーナリストの田崎史郎氏が、10月9日付の四国新聞のコラムで、国葬での岸田氏と菅氏の弔辞はどちらも同じスピーチライターが書いたもので、菅氏の弔辞の中の山県有朋(やまがたありとも)の歌はライターの原案段階から入っていたと明らかにしており、菅氏の弔辞が「他人が作ったもの」かどうかは、問題になるような話ではなかった。
玉川氏が、国葬に関して「政治的意図」「そういう風につくります」と言ったことが、弔辞を述べた菅氏や国葬そのものに対して「失礼だ」と言いたいのだろうが、そこには、戦前の「不敬罪」処罰のような、「国家体制に異を唱えること自体を許さない」という発想が含まれているように思えた。まさに、玉川氏が番組の中で述べていた「人の死を政治利用すること」そのものと言えるのである。
戦時下、国葬令に基づいて「国家に偉功(いこう)があった」として行われたのが、「軍神」山本五十六・連合艦隊司令長官の国葬であり、まさに「国家総動員」の号令の下に、国民全体を悲惨な戦争に巻き込む手段とされた。この時、もしどこかの新聞が、「山本長官の死を政治利用しようとしている」という“真実”を指摘していたら、当時の日本において、その新聞や執筆者はただではすまなかったはずだ。
■「国葬」は社会に何をもたらしたのか
安倍元首相の国葬は、その実施の是非について激しい意見対立があり、しかも、その議論を客観的に見れば、国葬実施に賛成し、肯定する論拠は希薄で、岸田首相の説明も凡(およ)そ議論に堪えうるものではなかった。そして、世論調査でも、国葬反対が賛成を大きく上回っていた。しかし、国葬が強行されてしまうと、そのような議論は棚上げになり、安倍元首相を失った思いを「山縣有朋の死における伊藤博文の心情」になぞらえた菅前首相の弔辞が絶賛されるなど、玉川氏が指摘するような、葬儀の「政治利用」ということも現実のものになった。