去年の1月に出した『かんちがい音楽評論』(彩流社)は、ほんとうのホントのところはわからないが、それなりの場所に着地したような感じがある。この文章を書くためにアマゾンをみたら10数人のレヴューによる結果が「3星」だったので、まあ妥当なところに落ち着いたということだろう。
なかには「山中千尋さんのかんちがい」「大西順子さんのかんちがい」「菊地成孔さんのかんちがい」といった目次を見ただけで怒った人もいたようだが、これも予想どおりというべきか。自分の好きなミュージシャンが褒められれば喜び、ケナされれば怒るという行為を過去何十年・何百年とくり返してきた日本において、状況がガラリと変わるとは思えない。もちろん、自分のきらいなミュージシャンがケナされていれば、いっしょに手を叩いて喜ぶという屈折愛も変わらず健在であり、その意味では、『かんちがい音楽評論』は、当たり前の結果をいままた改めて立証したにすぎないのかもしれない。
菊地成孔さんが、同書で突然のごとく「ナカヤマがキレた」のは、「自分が仕切っていたNHKのマイルス・デイヴィス特番に声をかけなかったからだろう」と言っているということを人伝に聞いたことがある。ハハハ、菊地さん、ぼくはそういうことで怒りませんよ。
まあ書かれた人たちにはなんらかの後遺症や怨念のようなものが残っているのかもしれないが、筆者であるぼくが「惜しい」と思ったのは、(また菊地さんで申し訳ないが)同書の1か月後に書店に並んだ文藝別冊『ジョン・コルトレーン』における、菊地さんの対談での「かんちがい」を取り上げる機会を逃したこと。この対談で、菊地さんはラヴィ・シャンカールのことについて語っているつもりだが、完全にマハリシ・ヨギと混同し、シャンカールでもヨギでもない架空の人物論に終始している。
じつはこれが菊地さんの書くものや語るものの土台にある典型的な「かんちがいのパターン」で、つまりはこういう「かんちがい」が結果的に許されているのは、当人がいくら文筆家・研究家・評論家を名乗ろうが「ミュージシャンだから」という世間の目があるからで、そういうことを同書で書いたわけだが、その自論をさらに強固にできたであろう好材料を逃したことが、筆者としては唯一悔やまれる。
過日、晶文社の編集者と、来年出す予定の本について打ち合わせをした。先方はすでにジャズ物の企画を考えていたようだが、自分がいま関心のあるもの、書きたいものに変更をお願いした。ジャズとロックが合わさったような切り口の読物だが、だいたいぼくはこういう感じで、先方が考えている企画よりも自分が書きたいものをごり押しすることが多い(10月から来春にかけて、それなりのペースで新刊が出る予定だが、そのほとんどはごり押し企画による)。
後日、同社から一冊の本が届いた。山中千尋著『ジャズのある風景』。新刊ということと、だいたいの体裁(判型や頁数)と価格の目安の参考にと送ってくれたのだろう。なるほど。この軽装版で1700円かあ。高いなあ。しかしこれが現実なんだよなあ。初版がこれくらいで、重版がかかったとしてもこれくらいで、と具体的に考えれば考えるほど落ち込んでくる。
すぐに読もうかと思ったが、パラパラとめくったところ、雑誌に書いた原稿をまとめたものであるらしい。なーんだ。じゃあすぐに読むことはないな。いや待てよ。再録ということは、彼女がジャズジャパン誌に書いた文章も載っているだろう。だとすれば、ぼくのことについて書いた文章もあるかもしれない。再びパラパラとめくると、おお、ちゃんと載っているじゃないか。そこで再度目を通す。ウン? こんな意地悪なこと書いてあったかな? あるいは、ひょっとして?
ぼくの「ひょっとして?」のカンは不幸にして当たっていた。ふたつの文章を並べてみよう。オリジナル版(引用1)は、ジャズジャパン誌Vol.3(2010年11月)に掲載された。
[引用1]
「ナ・カ・ヤ・マ?」何よりもナカヤマと呼ばれることを嫌う私。先月のジャズジャパンを持った手が震えました。私の名前があろうことか、誤植されて…写真だって記事だって全然違う!ん?あら、中山康樹先生ではないですか?なーんだ、ほっとした。「美人とアタマにつけないことには治まらない一群の女性ミュージシャン。セクシーでもなんでもなくただ脱がせりゃいいんでしょ」なんてくだりを私が書いていたとしたら、大変なトラブルになってしまいます。先生は、女性ジャズミュージシャンやエロなジャケットのおかげで、女性ジャズ初心者の足がCD売り場から遠のいてしまうことを憂いていらっしゃいましたが、ご心配いりません。ジャズCDの消費者の大半は健康なヘテロ男性です。自分の身体を飾り立てる以外のモノをコレクションしたいという衝動を持たない女性は、もともとハードのお客様ではないのです。(抜粋)
[引用2]
「ナ・カ・ヤ・マ?」何よりもナカヤマと呼ばれることを嫌うわたし。先月のジャズジャパンを持った手が震えました。わたしの名前があろうことか、誤植されて…写真だって記事だって全然違う!ん?あら、中山康樹さんでしたか。なーんだ、ほっとした。
「美人とアタマにつけないことには治まらない一群の女性ミュージシャン。セクシーでもなんでもなくただ脱がせりゃいいんでしょ」なんてくだりを万が一わたしが書いていたとしたら、大変なトラブルになってしまいますもの。
中山さんは、女性ジャズ・ミュージシャンや男性目線のエロジャケットのおかげで、女性ジャズ初心者の足がCD売り場から遠のいてしまうことを憂いていらっしゃいましたが、ご心配はいりません。ジャズCDの大半の消費者は健康なヘテロ男性。女性は、自分の身体を飾り立てる以外のモノをコレクションしたいという欲求を持つ傾向が低い、つまりもともとジャズソフトのお客様ではないのです。
それよりも、中山さんがあることないことワーワーと書かれているのを見るたびに、読んでいる方がお説教をされているような嫌な気分になるんです。今度もそっとページを閉じてしまいました。鬱陶しいのはジャズではなくて、中山さん。(『ジャズのある風景』より抜粋)
山中千尋という人は、文章を書く人間として、なんと小さく姑息で卑怯なのだろう。再録とみせかけて、相手が読むか読まないかわからないような隅っこで悪口を書き足すとは。言いたいことがあれば堂々と書けばいい。文句があれば、相手に確実に届くであろう場所で書きたいだけ書けばいい。それが文章を書く人間の成すべきことだろう。とくに相手に対する悪口・批判・反論の類であればこそ。あるいは本業である「音楽」で、うるさい人間どもを黙らせればいい。
問題は、ではなぜ彼女は悪口を書き加えなければならなかったのかということ、そして「かんちがい」は別のページにも用意されているのだが、ここから先は次回につづきます。[次回8月26日(月)更新予定]