かつてないほど、子どもの社会的地位・学歴と保護者の学歴・経済力とに強い相関関係が見られるようになっている現代。「ペアレントクラシー(親の影響力が強い社会)」という言葉で形容できるほど、社会階層の固定化が進んでいる。生徒、保護者、学校、教育行政の観点から日本がペアレントクラシー化に至った経緯を分析し、教育の公正の実現に求められる策は何かを提言する『ペアレントクラシー 「親格差時代」の衝撃』(志水宏吉著/朝日新書)から、ペアレントクラシーの引き金となった教育制度の転換点について、一部抜粋・再編してお届けする。
* * *
■「臨教審」がペアレントクラシーの引き金に
イギリスでペアレントクラシーという語が誕生したのが、1990年のことである。戦後最大と言われたサッチャー教育改革の真っただ中のことであった。
日本の教育を考えた場合、大きな転換点として常に挙げられるのが、当時の中曽根康弘首相がリードした臨時教育審議会(以後「臨教審」)の存在である。1985年から87年にかけて審議を継続し、その後の教育政策に大きな影響を与えた4次にわたる答申を出した。
その背景にあったのは、学校と保護者との関係性の変化である。親と学校が肩を組んで子どもを引っ張り上げる形から親と子どものペアが学校を品定めする形への変化。臨教審の社会的背景の一つとしてこの移行があったわけだが、逆に臨教審での審議結果がこの移行をさらに加速化させたこともまた事実である。
言葉を換えるなら、臨教審こそが、日本のペアレントクラシーの進展の「引き金」となったのであった。
臨教審には4つの部会が設置されたが、大きなバトルとなったのが、第一部会と第三部会との対立であった。「21世紀を展望した教育の在り方」を検討課題とする第一部会は「教育の自由化」を推進する立場をとった。
それに対して、「初等中等教育の改革」をミッションとする第三部会は自由化路線に大きく反発するスタンスをとった。本書の用語で言うと、新自由主義を推進しようとする第一部会とそれに真っ向から異議を唱える第三部会との対立の構図である。