彼は腹腔内に汚染した羊水が広がることを予防するために石炭酸をしみ込ませたガーゼを挿入することや子宮体部を腹腔外に持ち上げて縫合すること、ドレーンを置いて出血や膿を手術創から出すことなど基本的な操作を全て完成した。

 Sangerとは独立して、やはりドイツのFerdinand Adolf Kehrerが同年にほぼ同じ術式を発表した。しかしながら、彼らの手術成績はいずれも母体死亡率28%と高いものであった。グラスゴーの産婦人科教授John Martin Munro Kerrは1921年に下部横切開を報告、その後子宮破裂のリスクは著しく低減したがやはり感染死が多く、その解決には抗生物質の出現を待たねばならなかった。

現実のマクベス

 さて、戯曲の中では、魔女の予言によって修羅道に陥るマクベスだが、実際には暗殺ではなくて正々堂々の戦いでダンカンから王位を奪い、反乱常ならずスコットランドを17年間にわたり安定して統治したのみならず、敬虔なクリスチャンでローマを巡礼に訪れ、多額の御布施をして法王から祝福された名君だった。彼の治世でスコットランドは国力を充実し、北欧ヴァイキングの侵略もスコットランドを避けてイングランドに向かうようになった。

 しかし、マクベス52歳にして、ノーサンブリア伯シワードとダンカン王の遺児マルコムとの激戦で、陣頭にたって一騎打ちで敗北し首を授けた。父の仇を討ったマルコムがその後王位に就くが、その子孫も絶えてバンクォーの子孫が王になる。

 当時のスコットランドではタニストリーという王位継承制度があって、王孫までを含む王族の間で次の王を話し合いで決め、話がつかない場合は戦で決まることになっており、王位簒奪(さんだつ)の争いは日常茶飯事だった 。ダンカン王とマクベス王は母系の従兄弟だったが、彼らの祖父マルコム2世が試みた男系相続制度は成功せず(王子がみな夭折したため長女の子ダンカンが王位に就いた)、タニストリー制度下ではより力のあるものが王位に就くという原則は生きていた。

 史実ではマクダフはどこにも出てこず、モデルのひとりノーサンブリア伯も別に帝王切開という記録もない。史実では名君だったマクベスが希代の悪人となった背景には、1603年にエリザベス1世の死を受けて、連合王国の王となったバンクォーの子孫、スチュアート朝のジェイムズ1世の正当性を讃える意図と血で血を洗うがごとき文化的に遅れた(とイングランド人は思っていた)スコットランドに対するシェイクスピアの偏見があるように思われる。

 コロナ騒動で最近はご無沙汰だが、スコットランドを旅行すると気候・風土・分化・食物、全てイングランドとは全く別の国であることを痛感する。議会で否決されたとはいえ、スコットランド独立運動が盛んなのも頷ける話である。

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