医学的な帝王切開の歴史

 帝王切開術は21世紀の現代でこそ産科手術の基本中の基本であり、安全性の高い手技が確立しているが、手術侵襲としてはかなり大きく、19世紀までは命がけだった。

 筆者の手元にスウェーデンのストックホルムの古本屋で見つけた1843年の産科教科書があるが、帝王切開については、「危険な手術であり行ってはならない」と記されている。それ以外の部分、特に胎児発育や児頭回旋、骨盤位分娩については現代の教科書以上に詳細な記述があり奇異な感じを免れない。

 中世から近世にかけて、少なからぬ帝王切開の記録があるが、生体に対する症例報告として信頼性の高いものは1610年にウイッテンベルクでSenertが帝王切開で生児を娩出しえたものの、母体は術後25日に感染で死亡したという記事がある。このニュースはヨーロッパ中に広まったので、マクベス執筆時のシェイクスピアが参考にした可能性は十分あると思われる(マクベスの最古のテキストが1623年で、執筆年ははっきりしないが、初演が1611年で、その後何度も台本が書き直されている)。

 生体あるいは死亡した母親からの帝王切開術は、フランスのGuillemauの産科学教科書にも記載され、1612年には英訳されている。安全な帝王切開を可能としたのは、19世紀の麻酔と無菌法そして出血管理であった。1876年5月12日、くる病(骨軟化症)による狭骨盤の女性患者に対し、Paviaの産婦人科医Edoardo Porroが帝王切開後に膣上部切断を行って子宮体部を切除することで救命に成功した。

 その後、ヨーロッパ各地で帝王切開とPorroの手術が行われたが、1884年の時点で母体死亡率は56%に達し、依然として危険な手術に変わりはなかった。1882年にドイツの産婦人科医Max Sangerが筋層を2層に縫合し、腹膜を修復する術式を考案し、現在に至っている。

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現実のマクベスは…