そこに戸惑いながらも、何とか自分の立ち位置を見つけて、与えられた役割をこなしていた。いかりやさんの仲本評が少々厳しく聞こえるのは、ミュージシャンとして加入した仲本さんの笑いに対する熱意のなさを物足りなく感じていたからかもしれない。
ドリフのコントでは、いかりやさんが権力者のポジションに立ち、加藤茶や志村さんが彼を茶化したりして暴れ回ることで笑いが生み出されていた。そんな中で、仲本さんはボケ役を引き立たせるための「振り」に徹することが多かった。それは一見地味だが、ドリフの笑いを成立させるためには欠かせない重要な役回りだった。そのことはいかりやも十分わかっていたのではないか。
前述のいかりやさんの著書では、仲本さんについてこんなエピソードも出てくる。1970年1月、加藤が交通事故を起こし、治療と謹慎のためにしばらくテレビ出演を自粛することになった。志村さんが加入する前の加藤は不動のエースであり、彼がいなければドリフのコントは成立しない。
そんな中で、加藤の代役を務めたのが仲本さんだった。仲本さんは加藤がやっていた仕事をそつなくこなし、その間は視聴率が下がることもなかったという。しかし、加藤が復帰すると、仲本さんは何事もなかったかのように普段のポジションに戻った。
いかりやさんは仲本さんについて「やればできるやつなんだが、めったなことではやる気になってくれない」と書き残している。与えられた役割をまっとうする一方で、出しゃばらないし無理に目立とうともしない。むき出しの個がぶつかり合うドリフという組織をバランサーとして支えていた仲本さんもまた、ほかのメンバーと同様に、余人をもって代えがたい偉大なコメディアンだったのだ。
心からご冥福をお祈りします。(お笑い評論家・ラリー遠田)