桶狭間の戦い、川中島の戦い、備中高松城の戦い――歴史に名を刻んだ戦国の合戦は枚挙にいとまがない。週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では「戦国の大合戦ランキング」を特集。戦国の期間に関しては異説も多いが、この大合戦ランキングでは、応仁の乱が起こった応仁元年(1467)から「元和偃武」を迎えることとなる慶長二十年(1615)の大坂夏の陣までの約150年間として、その間に起こった大小数多くの合戦のなかから厳選した戦いを、「兵力」「采配力」「武力」「革新性」「歴史への影響力」の5つの基準で採点しランキング化。その上位、ベスト10のなかから歴史を彩った合戦をシリーズで解説する。今回は、今回は、1位となった「長篠・設楽原の戦い」を紹介する。
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天正三年(1575)四月二十一日、甲斐・信濃・駿河から東美濃・遠江の一部にわたる版図を持つ武田勝頼は1万5000の兵力で三河に侵入。各地を脅かした後、長篠城を包囲した。
徳川家康の援軍要請を受けた織田信長は五月十三日に岐阜を出陣すると岡崎で家康と合流。十八日に長篠西方の設楽原に着陣する。これを知った勝頼も長篠城包囲の兵3000を残して設楽原へ主力1万2000を向ける。信長は設楽原の連吾川西岸、極楽寺山・茶臼山などの山地に大土木工事を施していた。斜面を切り開いた広い曲輪群、数段の切岸(急斜面)、堀切、虎口を備え、その前面には三重の柵(『本多家武功聞書』)、空堀、土塁が南北2キロメートルにわたって横たわる鉄壁の備えである。この備えに満足した信長は「今度勝頼と間近に対陣するのは天の与えるところだから、悉く討ち果してみせる」(『信長公記』)と決戦への意欲を燃えたたせた。
さらに信長は、細川藤孝や筒井順慶から鉄砲手や弾薬を長篠へ送らせている。彼がこの戦いに投入した鉄砲は俗に3000挺というが、おそらくそれに近い数が投入されただろう。野戦で大規模な陣城と大量の鉄砲を組み合わせて行われる戦術はこれが初めてで、その革新性と武器の先進性・数量のポイントは高い。
一方、二十日に軍議を開いた勝頼は、「信長・家康は作戦も無く陣地に籠もっているから、しゃにむに突撃をかけて彼らを討ち果たす」(書状)と、こちらも決戦に向けて連吾川東岸・医王寺山周辺に軍勢を展開していた。