その日の夜、家康の重臣・酒井忠次が兵4000(一説に6000とも)と鉄砲500を率い、南から迂回して長篠城方面に向かう。長篠城の解放と武田軍の退路を断つ目的の作戦で、思惑通り二十一日未明に鳶ヶ巣山砦とその出丸の中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君ヶ臥床砦をすべて攻め落とした。武田方では勝頼の叔父の河窪信実をはじめとする諸将が戦死してしまう。医王寺山では、鳶ヶ巣山方面から聞こえてくる戦闘の音に「してやられた」と歯ぎしりしながら、勝頼が突撃命令をくだす。鳶ヶ巣山救援のために後退すれば織田・徳川連合軍に追撃されることは必定であるため突撃による短時間での決着に賭けるしかなかった。
早朝6時頃、武田軍は突撃を開始。開戦後には鳶ヶ巣山砦失陥の報せが勝頼本陣に届けられる。武田軍の第一陣・左翼の山県昌景隊は、織田・徳川連合軍から鉄砲(三段撃ちが行われたとも伝わる)の斉射を浴び、昌景も銃弾で討ち死にした。
信長は、自軍の各部隊が持つ鉄砲と銃手をすべて集め、前田利家らに付属させて統一した指揮の下で射撃させたが、これは日本海海戦で連合艦隊がみせた統一砲撃より4世紀も早い。また、柵から足軽を出して攻撃させ、敵を柵前に引き寄せるとまた銃撃を加えるという戦法をとったが、これは有機的で将兵の息がピタリと合っていなければうまくいかないため、この信長の采配は評価が高くなる。
こうして激しい戦闘のなか、右翼の真田信綱・昌輝兄弟も戦死。2番手の武田信廉隊も半数以上の損害を出して退却、続く小幡信貞隊も兵を半減させて後退。4番手武田信豊隊・5番手馬場信春隊も敗退した。戦闘開始から8~9時間が経過した未刻(午後2時前後。『信長公記』)になると、ついに武田軍は戦闘力の限界を迎える。後備の穴山信君(親類衆筆頭)隊が無断で撤退を開始し、「どっと敗軍」(『信長公記』)とパニックに陥った武田軍はもはや統制を失って鳳来寺山(長篠城北東)方面へと潰走していく。内藤昌豊・馬場信春ら信玄以来の重臣たちは勝頼の退却を助けるため殿軍となり、次々と戦場の露となった。勝頼はわずか数騎の供回りのみで寒狭川沿いに北の甲斐へと逃れていったという。武田軍の死傷者は1000(『多聞院日記』)から多いものでは1万余り(『信長公記』)と伝わっている。長篠・設楽原の戦いは、戦国時代の合戦の思想を大きく変える合戦だった。
■長篠・設楽原の戦い(合計点:92点)
【動員兵力】17 【采配力】18 【武器】20 【革新性】20 【歴史への影響力】17
※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から