FA補強で他球団の主力を次々に獲得するイメージが強い巨人だが、逆に巨人からFAで出て行った選手も5人いる(松井秀喜、上原浩治、高橋尚成のメジャー移籍組は除く)。
第1号が“FA元年”1993年オフの駒田徳広だ。
同年の駒田は膝関節痛などで開幕から不振が続き、足かけ5年にわたる連続フルイニング出場も「450」でストップ。打率.249、7本塁打、39打点と不本意な成績に終わった。
「その年は、精神的な意味でも『更年期障害』だったんです。前年まで調子が良かったのに、突然ぷつんと何かが切れてしまった」(矢崎良一著「元・巨人」 廣済堂)。
さらにトレード報道や一塁でポジションが重なる中日・落合博満のFA移籍も濃厚になり、自分の居場所がなくなりつつあるのを感じた。
精神的に追い詰められ、「僕は130試合ゲームに出たい。そのためのチャンスは与えてくれるのかどうかを聞きたかった」と切望した駒田は、首脳陣やフロントに何度となく“シグナル”を送ったが、誰も話し合いの席に着いてくれなかった。
巨人で野球人生を終えることが一番と考えていた駒田も、ついに「これは自分のための移籍だ」と踏ん切りをつけ、FA権を行使した。
あくまでセの球団に移籍して巨人と対戦することを望んだ駒田は、藤田元司前監督時代のヘッドコーチで、気心が知れていた近藤昭仁監督の横浜への移籍を選ぶ。
翌94年4月12日、古巣・巨人と対決した駒田は、「絶対に打ってやる」と闘志をあらわにして、宮本和知から意地の一発を放つ。同年は打率.284、13本塁打、68打点と“横浜の駒田”をアピールした。
その後、年々チームが強くなっていくと、巨人への特別な感情も消えて、純粋に野球を楽しめるようになり、98年に“マシンガン打線”の5番打者としてチームの38年ぶり日本一に貢献。00年には史上29人目の通算2000安打も達成した。
2人目は06年オフの小久保裕紀だ。