軍略と政略の両面から、義時の権力を切り崩そうとしたわけである。ただ、この時の挙兵の最終目的が、あくまで義時個人を排除することにあったのか、幕府そのものを崩壊させることにあったのかについては、見方が分かれている。

 確かに上皇の命令は義時個人を名指ししており、幕府という組織に対する敵意は必ずしも表明されていない。ただ、承久の乱の30年ほど前に起きた平泉政権の滅亡は藤原泰衡の追討と表現され、乱の110年ほど後に起きる幕府の実際の滅亡は北条高時の追討と表現された。当時は組織の代表者の追討が、組織そのものの打倒を意味することもある。仮に上皇の「義時の追討」が成功していた時、幕府が存続できていたかは不透明である。

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 24 鎌倉幕府の滅亡』から

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