しかし、頼家はもともと自他ともに認める頼朝の後継者だから、幼い実朝を将軍に担いで権勢を増す北条氏を快く思わない御家人も少なくなかった。北条氏と和田氏とが争った和田合戦に前後して、頼家の遺児・千寿(栄実)を奉じた反乱計画が相次ぎ発覚している。

 そして、承久元年(1219)、頼家の遺児である公暁によって、実朝が暗殺された。翌月には阿野全成の遺児時元が、翌年には頼家の遺児禅暁も討たれる。将軍の後継をめぐる暗闘の背景には、頼家と実朝、同母兄弟でありながら、政治的バックグラウンドを異にする二人の将軍をめぐる錯雑な人間模様があった。

 実朝暗殺にもっとも衝撃を受けた一人が後鳥羽上皇である。実朝は『新古今和歌集』など京都の最新文化に深い関心を示し、京都政界と良好な関係を築いていた。しかも、実朝と上皇はともに公卿坊門信清の娘を妻としている。すなわち、二人は義理の兄弟でもあったのだ。実朝の死により、公武間の友好は泡と消えた。

■義時の横暴を糾断した後鳥羽上皇の真意

 源実朝の暗殺は、幕府に重大な政治課題をもたらした。実朝には子供がいなかったため、将軍が不在となったのである。以前から政子は子のない実朝の後継に気を揉んでおり、後鳥羽上皇の乳母として京都政界に隠然たる影響力を有していた藤原兼子(卿二位)らと接触していたが、突然その時が来たのである。

 これを受け、幕府は朝廷に対し、次期将軍として実朝の義姉が生んだ後鳥羽上皇の皇子を要請した。しかし、上皇は皇族の将軍が誕生すれば「日本国を二つに分ける」ことになると言って、要請を拒否した(『愚管抄』)。幕府は次善の策として天皇家に次ぐ家柄にある摂関家の子弟に狙いを定める。こうして、将軍候補として鎌倉に下ったのが、左大臣九条道家の子で弱冠二歳の三寅(頼経)である。三寅の父祖には九条兼実・一条能保・西園寺公経といった親幕派貴族の名前が並ぶが、なかでも能保の妻で父方の曾祖母は、源頼朝の実の妹であった。三寅は頼朝と血のつながりもあったのである。

次のページ