残された資料は雄弁だった。「昔を振り返る」座談会などでは、男子学生と学んだ女性たちがどれほど嫌な思いをしたかが残されていた。明治初期は、公娼制度が整えられ、年齢や身分を問わずに、男ならば女を買え、という「文化」が急速に広まった時代でもある。済生学舎の男子学生たちも授業が終わると塀を跳び越えて、吉原などに遊びに行ったというエピソードが残されており、そういうなかである日、このような演説が男子学生によって行われたことがあった。
「この神聖な済生会に女子の入学を許しているとは、我々男性としてまことに愾憤に堪えない。彼女たちはこの学校の組織に食い込み、学生を腐敗と堕落に導くことの特異性バクテリアである。済生会の風紀を維持するためにも、一日も早くこのバクテリアを駆逐しなければならない」
この済生学舎はその後、突如女子学生の入学を禁じ、在校生の女性も追い出してしまう。その受け皿をつくらなければ、と動いたのが、自身も済生学舎で学んだ吉岡彌生、東京女子医科大の前身である東京女医学校の創立者だ。自身も、景山英子や岸田俊子ら、民権運動で活躍したモノ言う女に憧れた女性であり、そして「女医の命脈を絶やしてはならぬ」という強い思いで女子が女子だけで医学に集中できる場所をつくったのだ。
そのような女性たちが立ちあげた女医会の歴史を、国会図書館で読みふけっていると、自然に自分の呼吸が荒くなっているのを感じる。今、どのくらい昔と変わったんだろう、私たちはどれだけ生きやすくなっているんだろう。女性を一律減点していた差別入試が発覚したのはたった4年前のことだ。そのときに「女性は妊娠し、出産するから」と差別を肯定するようなことを言う人は少なくなかったが、明治時代も、「妊娠して休む女は、人命を委される医術には不向きだ」とか「女が高等教育を受けると独身になり、子どもを産む女が減る。ひいては国家滅亡だ!」と騒いだ男性ジャーナリストたちの姿が、女医会の会誌には残されていた。他にも「月経中の女が手術室に入ると穢れる!」「手術して血を見ることが平気な女が増えると日本の美徳が壊れる。国家滅亡だ!」と騒がれた記録も残っている。しかも、こういうことをわざわざ、女子の医学校の卒業式に行ってヤジを飛ばすなど、嫌がらせをするのである。……え、今もそういう感じ、あるよ!?