公許女医50周年を記念したイベント(昭和11年)・日本女医会提供
公許女医50周年を記念したイベント(昭和11年)・日本女医会提供

作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、日本女医会120年の歴史について。

【写真】北原みのりさんはこちら。

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 日本女医会(女医会)が設立されて、今年で120年になった。そして……なぜか……先日行われた栄えある女医会創立120周年記念式典で、私が記念講演をする機会をいただいた。身に余る栄誉なことなのだが、当日の講演前の私の写真を見ると、あまりの緊張に顔がこわばり、指先がピンと伸びてしまっている。医師として頑張ってこられたたくさんの女性の前で話すことはもちろんだが、120年の歴史を思えば思うほど、その重みに圧倒されるような思いになったのだ。

 日本で女性の公許医師が誕生したのは1885(明治18)年、産婦人科などの医師・荻野吟子だ。よく知られているように、医師を目指した理由は夫からうつされた淋病だった。たった10代で親の決めた男と結婚させられ、淋病に感染し、2年後に実家に戻される。結婚も離婚も自分の意思ではかなわない時代に、治療にあたるのは男の医師ばかり。医師となって自分と同じ境遇の女性たちを救いたい、という強い思いで医師免許取得を果たしたのだ。

 その前年には、高橋瑞子という女性が、野口英世も後に通う済生学舎という医学学校(日本医科大の前身)に入学する。女子の入学を認めていなかった医学校の校門に三日三晩立ち続け、校長の長谷川泰に直談判し入学を認めさせた。

 女医会の歴史は、そんなふうに“重すぎる扉を開いた”女性たちの人生そのものだ。女医会が残した資料の大半は、関東大震災で焼失してしまっているのだが、それでも定期的に出版されていた会誌では、女性たちが生き生きと語り、自分たちの記録を残し、後続の女性たちに向けての場を広げようとしていた医師たちの姿がよみがえる。特に、大日本帝国憲法が発布された明治20年代は、急速に天皇を長とした家父長制機運が高まり、女性たちは公の場からどんどん排除されていくバックラッシュの時代でもあった。明治10年代は新しい時代への希望とともに、女性の弁士などが活躍することもあったが、20年代になるとそういう機運も失われていく。そういうなか、国会傍聴を女性に禁じた法律に対し、荻野吟子もメンバーだった矯風会(日本で一番古い女性団体)が大暴れして女性の傍聴権を認めさせるなど、女性の締め出しが激しくなるほど、女性たちの連帯が強まる時期でもあった。

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