鎌倉幕府の権力闘争を描いたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎える。ここでは、鎌倉幕府の滅亡までを特集した週刊朝日ムック「歴史道 Vol.24」から、後鳥羽上皇が武家の頂点に立つ北条義時に対して討伐の兵を挙げた「承久の乱」をひも解く。
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幕府軍と上皇軍との最終決戦の地となったのが、近江国の瀬田(勢多)と山城国の宇治である。この二つの場所は環境が似ている。いずれも川を挟んで対峙する両軍の間で起きた、橋をめぐる攻防なのである。橋とは、瀬田川に架かる瀬田橋と宇治川に架かる宇治橋である。東国から京へ入る場合、必ず川を越える必要がある。その主たる場所が瀬田橋と宇治橋で、古代以来、政変の発生においては攻防の舞台となっている。
琵琶湖の南端、瀬田の地から湖水が大阪湾に向かって流れ出る。これが瀬田川で、この琵琶湖の南端に位置する瀬田川の源流部に架かるのが瀬田橋である。近くには、紫式部が源氏物語を構想したことで知られる石山寺がある。瀬田橋はたびたび再建を繰り返しているが、唐橋とも呼ばれ、交通の要衝であるだけでなく、景勝地としても知られる。東海道や東山道から京へ向かう大軍が、琵琶湖という巨大な湖を船で渡るのは容易でないので、瀬田で川を越えることになるのである。
瀬田が京と東国との境界であるとすれば、宇治は京と南都(奈良)との境界である。瀬田川と宇治川とは同じ川で、琵琶湖から流れ出た瀬田川が、下流で宇治川と名を変えて巨椋池に流れ込む。戦前に干拓されたため現在は姿を消しているが、京の南方には巨椋池と呼ばれる湖が存在していた。宇治川が巨椋池に注ぐ、いわば河口部が宇治であり、ここに宇治橋が架かっている。京とかつて都だった奈良とは当時の二大都市である。二大都市の中間に横たわる宇治川は往来を阻む障壁であり、そこに架かる宇治橋は往来を保証する生命線であった。中世において、奈良興福寺の僧兵は強訴のため春日社の神木を担いでしばしば京へと迫ったが、都を守る武士との間で攻防を繰り広げたのがこの宇治である。
このように、東国から京に向かうには、瀬田川=宇治川を越える必要がある。代表的な渡河点が、琵琶湖から流れ出る瀬田と巨椋池に注ぎ込む宇治であった。