「歴史道 Vol.24」から
「歴史道 Vol.24」から

 瀬田と宇治とにおける合戦の様子は、『吾妻鏡』や『承久記』に見える。六月十三日、幕府軍は川を越えて京へ侵攻すべく、渡河点に通じる「方々の道」へと軍勢を手分けして進めた。このうち、瀬田には北条時房の部隊が、宇治には北条泰時の部隊が向かう。上皇軍も両所を最終防衛ラインと位置づけて、多くの軍勢を配置したので、まさに激戦となった。

 瀬田橋では、比叡山の僧兵も加勢した上皇軍が橋板を外し、幕府軍が大挙して橋を渡ることができないようにした上で、垣楯(楯を並べて相手からの矢を防ぐ防御壁)を構築し、向かってくる幕府軍に矢の雨を浴びせかけた。また、川の中には綱を張り、乱杭(不規則な杭)を打ち込み、川辺にも逆茂木(尖った木の枝を結び合わせた柵)を並べて、浅瀬からの侵入を防いだ。綱・乱杭・逆茂木といった障害物は、人の行く手を阻むのはもちろんだが、特に武将たちが乗る馬が障害物に弱かった。時房率いる幕府軍は苦戦したが、十四日夜、突破に成功した。

 宇治橋でも、上皇軍は同様の戦術で幕府軍の行く手を阻んだと思われる。泰時は一帯が見渡せる栗子山に陣取ったが、幕府軍の中で一部不用意な武士たちによる先陣争いが起き、負傷者が相次いだ。翌日、泰時は宇治橋を正面突破するのではなく、川の浅瀬を渡る作戦をとった。宇治川が巨椋池に注ぎ込むあたりには多くの中州や中島が形成されており、水深の浅い場所をうまく見つけ出せれば、必ずしも橋を渡らずに対岸へ進入できるのである。泰時は水練(泳ぎの名人)の武士に浅瀬の調査を命じた。そして、浅瀬や中島を利用して対岸へと到達した幕府軍により上皇軍は撃破された。『吾妻鏡』には幕府軍で軍功を挙げた武士のリストが引用されており、戦闘の激しさを今に伝えている。この戦いで、泰時は周囲にある民家を破壊し、その廃材を利用して作らせた筏で川を渡っている。また、幕府軍は敗走し周辺に逃げ隠れた上皇軍の兵士を掃討すべく、近隣の民家を焼き払っている。戦場となった地域に住む民衆は、戦禍を免れえなかったのである。

 こうして、上皇軍にとっての最終防衛ラインである瀬田と宇治とは突破された。ここに乱の勝敗は決した。翌十五日、京へと入った幕府軍に上皇は降参した。

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