■上皇の命令は絶対ではなくなっていた東国の武士

 最終防衛ラインの宇治・瀬田が突破された翌日、後鳥羽上皇は降伏する。「挙兵は自分ではなく、一部の臣下が企てたこと」。幼い将軍を操る義時を非難して挙兵した権力者の降伏宣言は、トカゲのしっぽ切りを思わせる保身の弁であった。

 上皇軍の敗因は様々あるが、兵員数に相当の差がついたことは決定的だった。兵力が不足した理由の一つは、武士の動員をめぐる上皇の見込み違いである。官宣旨という朝廷の公文書を用いて守護・地頭に挙兵を呼び掛けた上皇は、彼らが命令に従うと思っていた。源氏であれ、平氏であれ、本来武士とは朝廷の軍事部門の一員であり、皇族や貴族に奉仕する存在である。守護・地頭もあくまで武士なので、朝廷の最高権力者たる上皇は自分の思い通りに動くものと信じていた。

 事実、京周辺や西国に拠点を持つ武士は、多くが上皇軍に加わっている。幕府との関係が弱く、朝廷との関係が強い地域であれば、上皇の命令に従い行動するのは武士としてごく自然なことである。

「歴史道 Vol.24」
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 ところが、幕府が誕生した東国の空気は少し違っていた。命令を知った幕府の首脳部が動揺を隠しきれなかったように、武士として上皇や朝廷に対する畏怖と畏敬の念があったことは確かだが、しかし、上皇の命令は絶対でもなかった。

 源頼朝が鎌倉に入ってから40年ほどの間に、上皇の想像を超えて東国では変化が起きていた。朝廷を尊重しつつも朝廷という存在を相対化しうるポテンシャルが、幕府や東国武士の中に萌芽し始めていたのである。上皇の挙兵は東国武士に芽生えつつあった朝廷を相対化する意識を、むしろ開花させてしまった。

 この開花をうまく誘導したのが、大江広元ら京出身の文官たちだった。彼らは御家人たちの気持ちが揺るがぬうちに即時の派兵を訴えた。上皇は挙兵を呼び掛ければ、あとは東国の武士たちが義時に反旗を翻し、幕府はおのずから空中分解すると考えていた。そのさまを、自身は京で悠々と見ていればよいはずだった。

 ところが、幕府は攻勢作戦に打って出る。東国でも武士が自分に味方すると信じてやまない上皇の目論見は外れたのである。鎌倉から帰京した密使が、幕府軍が大挙押し寄せてくるとの一報を伝えたとき、上皇には鎌倉に対して反転攻勢を仕掛けるだけの戦力も戦略もなかった。乱後、上皇に味方した畿内・西国の武士や貴族の所領は没収され、幕府は全国へと大きな影響力を及ぼすようになる。

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