なるほど、大変なごけんそんぶりだ。しかしけんそんというのは、だれにも言わないところに値打ちがある。こう言ってしまっては、むしろ清少納言よりもいやらしい。
いじわるマダム紫式部の、もう一つの「女性的」特質はなかなかウヌボレが強いことだ。先にご紹介した「紫式部日記」には、彼女と藤原道長との交流が書かれている。
道長――といえば当時のワンマン。平安貴族の黄金時代を築いた人で、式部の仕える中宮彰子の父である。彼女の一家は、この権力者にだいぶお世話になっている。彼女が彰子の家庭教師になったのも、道長のお声がかりによるものだった。
道長は、そのころ式部が書きはじめていた「源氏物語」にも大いに関心を持っていたらしい。が紫式部は、
「いやそれだけではない。道長さまは、じつは私自身へも関心をお持ちだった」
と日記の中に書いているのだ。
ある日のこと、中宮のところへやって来た道長が、「源氏物語」を見て、何やかや冗談をいったあとで、歌をよみかけた。
すきものと名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ
「こんな物語を書くあなたは相当の浮気者だと評判だ。このぶんでは素通りする人はないのじゃないかね」
式部はすぐさま、
「どういたしまして……」
と返歌する。
と、そのあと真夜中に戸をたたく音がした。あいびきのサインである。こわくなってじっとして戸をあけずにいると、翌朝道長から歌が届けられた。
夜もすがら水鶏よりけになくなくぞまきの戸ぐちにたたきわびつる
意味だけ言えば「夜中じゅう泣く泣く戸をたたいたのに、あけてくれなかったね」というようなことである。式部はそれに答えて、
ただならじ戸ばかりたたく水鶏ゆゑあけてばいかにくやしからまし
「どうせちょっとした物ずきでなさったことですもの。あけたらかえって後悔しますわ」
式部と道長の交渉はこれだけだ。
はたして二人はどうだったのか? これには古来学者にも二説ある。式部は道長にからだを許していたという説、いやこれだけで何もなかったという説――。