私は起きると小町を撫でながら、「今日も愛してるよ。今日も元気に過ごそうね」、寝る前は「今日も生きててくれてありがとう。明日もまたおいしいもの食べて一緒に遊ぼう」とか、「私の元に来てくれてありがとう」と感謝の言葉をかけました。
最晩年になると、私の心に引っかかることがでてきました。モンゴル生まれの猫なのに、日本で死を遂げることはかわいそうではないか?と。
ところが偶然にも、小町が亡くなる前に、私の住んでいる町にモンゴル人家族が引っ越してきたのです。私はその家の女の子に日本語を教えることになったのですが、うちにモンゴル出身の猫がいると知り、折り紙で折った猫や、猫の絵を小町にプレゼントしてくれました。そのプレゼントは,小町にとってモンゴル製の最後のおもちゃとなりました。
小町がモンゴルに帰れない代わりに、モンゴルから「使者」がやってきたのかな……。そう思える出来事でした。
■「飼い遂げる」本当の意味に気づいた
小町が数時間以内に亡くなってしまうと感じた時、首輪を外しました。
「これからお前は死んで体を失うから、今までのようには会えなくなるよ。会えなくなっても愛しているよ」と言って撫でてあげました。小町が毎年体調を崩すたびに、「まだ生きて」と言っていた私でしたが、「もう死んでもいいよ」と言いました。
そして朝方、小町は旅立ちました。長い息を吐いた時の安らかで優しい音が、耳に焼き付いています。あの吐息を思い出すと、「ああ、小町は幸せだったんだな」と今でも感じます。もちろん悲しくて、ひどいペットロスにもなりましたが……。
小町をモンゴルで迎えた時、腕の中で看取ろうと決め、それを叶えた私ですが、亡くなって気づいたことがあります。それは、「飼い遂げる」=死んで終わり、ではないということ。死後も慈しみ愛し続けることで猫との関係が続き、ペットに向けていた愛を今度は自分自身や周囲に向けていき大切にしていく、それこそが「飼い遂げる」ということではないか。それが自分にできている、できた……そう思えた時にペットロスから解放されたんです。