■7世紀のモンゴルにもあった鴟尾
千田さんはまず鯱の源流をさかのぼります。鯱とは、頭が龍(虎とも)、胴は魚、背中に尖ったひれをもつ空想の生きものです。
古代中国では宮殿や霊廟の屋根に「正吻(せいふん)」と呼ばれる棟飾が備えられ、そのモチーフは龍とみられています。龍は古くから中国を中心とする東アジア世界では「最高位の吉祥文」であり、「天界を自在に駆け昇り、雨を降らせ、霊力をもった霊獣としての龍は、皇帝をはじめとした権威の象徴になった」とされてきました。龍のモチーフは、すでに弥生時代の日本列島にも伝わっていたと考えられていますが、そうした中国で成立した棟飾は飛鳥~奈良時代には宮殿・寺院の「鴟尾(しび)」としてとりいれられました。
鴟尾が伝わったのは日本だけではありませんでした。同じころのモンゴルにも鴟尾が伝わっていたことが、2011年、モンゴルの首都ウランバートルの西方約220キロにある草原でみつかった地下墓(オラーン・ヘレム墓)の発掘調査で明らかになりました。その墓は7世紀につくられたとみられ、地下道の壁面には、モンゴル初となる極彩色壁画が描かれていたのです。奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳の石室にも表現されていた「青龍」と「白虎」のほかに「樹下人物図」などの複数の人物や動物の図もありましたが、注目されるのは朱色に塗られた「楼門図」で、瓦葺きの建物の屋根に、立派な鴟尾が表現されていたのです。
地下墓がみつかった地域は、トルコ系騎馬遊牧民の突厥(とっけつ)が6世紀半ばごろから支配してきたのですが、630年に唐王朝に服属し、唐の間接統治を受けることになりました。壁画が描かれたのは、突厥が唐の間接統治を受けたころとみられ、唐の文化が草原地域にも浸透していたことを示しています。
その後も日本は東アジア世界との交流を続け、その過程で鯱の原形も伝わってきたとみられます。それを示す例として、千田さんは16世紀前半に仇英が描いたとされる中国の都市図・風俗図「清明上河図」を挙げ、描かれている城壁の楼門や宮殿、邸宅などの屋根の多数の棟飾(正吻)に注目しました。日本の城の屋根に鯱があげられていく直前に、中国では龍をモチーフとした棟飾が広く使われ、シンボルとして明快な意味を持ち、それが東アジア世界に影響を与えたのではないかと指摘しています。