経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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目の前に小さな牛さんのフィギュアがある。窓の外には本物の牛さんがいる。かなり遠くにいる。だから、大きさはフィギュアの牛さんとほぼ同じに見える。だが、実は大きい。ただ、遠いだけである。
小さいと遠い。この違いをフィギュアで遊んでいる幼子ちゃんに分かってもらうのは難しい。遠くて小さく見えているから、別段、脅威を感じない。そんな存在が、実は大いなる危険物だということはあり得る。遠くでウロウロしている肉食恐竜からは、小さく見えているうちに逃げるに限る。本当の大きさが分かるところまで近付いてきたら、万事休すだ。
新型肺炎も、遠い武漢市の問題だった間は、小さなことに見えていた面がある。だが、接近してくる間に、みるみる大きな脅威と化してきた。
実は小さな問題が、近いから大きくみえることもある。某女優さんが薬物の常習犯だったということが判明した。本人にとってはともかく、世の中的には、さほどの大事件ではない。だが、近いから騒ぎが大きくなる。某政治家がイクメン宣言で点数稼ぎをする。それがどうした。だが、これが大型サイズの扱いを受ける。少しカメラを引けば、あまりにも小さい。
近くて大きな問題を矮小化しようとする人々もいる。野党は、いつまで「桜を見る会」の追及に固執するつもりか。もっと遠くに目を向けて、彼方の大事に焦点をあてないか。与党側はそんな風にいう。だが、この問題を小さなフィギュア扱いすることは許されない。そこには、民主主義を理解出来ず、それを軽んじ、やりたい放題を貫徹しようとする政治の巨大な愚かさが、グデグデと横たわっている。その大きさを見損じてはならない。
この近くて大きな問題を徹底追及することなく、遠くに小さく見えている諸事を論議の俎上に載せることは許されない。
小さいことと遠いこと。大きいことと近いこと。近くて小さいものと、近くて大きいもの。遠くて小さいものと、遠くて大きいもの。幼子ちゃんも、育つにつれて、これらの識別がつくようになる。この識別に狂いがないことが、大人の証しだ。我々は常に大人でなければいけない。
※AERA 2020年3月2日号