10歳のころ=宮城県岩沼市、石川幹子さん提供
10歳のころ=宮城県岩沼市、石川幹子さん提供

 あのころは駅のすぐそばに学校がありました。当時は戦争で夫を亡くされた方がたくさんいました。朝、家で育てた野菜をかついで塩釜に行ってそれを売って魚を仕入れて、その魚を売る「かつぎや」のおばさんがいっぱいいて、みんなたくましいの。電車にはそういうおばさんも大勢乗っていて、仙台駅の前には市が立っていた。ここにはアコーディオンを弾く傷痍軍人さんもいて、戦争の被害を受けながら必死に生きる人たちが大勢集まっていて、とにかくカオス。そこを通り抜けていくと、まるで天国のような学校がありました。荘重なパイプオルガンと賛美歌で、一日が始まる。

 毎朝、そういう複雑なものをたくさん見て育ったので、いろんなことを考えました。戦争の悲惨さとか、平和の大切さとか、人を愛することがどれだけ大事かとか。

 高校3年生のときに、役所に勤めていた父が亡くなりました。要するに大学は学費の安いとこにしか行けない。お嬢様学校で、受験勉強なんかしていないから現役では受からない。東京に叔父がいたので、そこで1年間受験勉強をして東京大学に入りました。

 植物の勉強をしたいと思っていました。高校の先生に里山にいろいろ連れて行っていただいて、野草大好き、植物大好き人間になりました。でも、あのころは高度成長期で開発もすごかった。大好きな森がある日突然、ブルドーザーが入ってなくなってしまう。こういう理不尽なことを学問によって解決できないかと思っていました。

 ところが、入学しても学園紛争でバリケード封鎖されていて、中に入れなかったんですよ。私の次の年は入試が中止。そういう世代です。私は何でストライキやっているのかわからない。結局、勉強しようと思って大学に来たのに勉強ができなかった。その思いはずっとありました。

>>【後編:3人の子どもに「お母さんはやっぱり勉強したい」主婦から大学教授になった石川幹子さんの分岐点】に続く

石川幹子(いしかわ・みきこ)/1948年宮城県岩沼市生まれ。1972年東京大学農学部卒、1976年ハーバード大学デザイン大学院修士課程修了(M.L.A)、1976~1991年東京ランドスケープ研究所・設景室主幹。1994年東大大学院農学生命科学研究科博士課程修了(農学博士)。工学院大学特別専任教授、慶應義塾大学環境情報学部教授を経て2007年から東大大学院工学系研究科都市工学専攻教授、2013年から中央大学理工学部人間総合理工学科教授・学科長。2019年から中央大学研究開発機構教授。中国の四川大地震復興支援に対し、2020年に都江堰市から最優秀人材栄誉賞を、2022年に成都市から公園都市建設を先導した貢献をたたえるメダルを受けている。

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