春樹さんが熱心に語り始め、副調整室のディレクターはマイクの音量を調整する「フェーダー」を上げ、その声を録音した。
こちらが時折質問をはさんで十数分、それを春樹さんが1人で喋っているように編集してプレゼントした。
ラジオでしゃべるイメージが湧いたのか、その後とんとん拍子に話が進んでいった。番組名は、春樹さんが自ら「村上RADIO」とした。もちろん、「レディオ」と読むことも。
「『村上RADIO』は1人語りにしませんか?」
私は、米国のミュージシャン、ドナルド・フェイゲンのアルバム「ナイトフライ」のジャケットを見せた。レコードを前にDJが1人でマイクに向かう姿が写されている。
DJが聴かせたい曲を自ら選び、話したいことを自由に話す。そんなラジオの原点こそ、春樹さんの番組にはふさわしい。リスナーは春樹さんの声だけを聴きたいはずだ。アメリカンスタイルのワンマンDJのイメージだった。
番組テーマ「僕が走りながら聴く音楽」も、春樹さん自身が考えた。
『ホテル・ニューハンプシャー』の作家、ジョン・アーヴィングと、ニューヨークのセントラルパークを一緒に走りながらインタビューしたという話が出た時、春樹さんは自分が走る理由を説明した。
「やっぱり、下半身が安定しないと書けないんですよ、文章って。下半身がしっかりすると上半身が柔らかくなるんです。そうすると文章が上手く書けるようになる」
「自分の葬式の時に流す音楽? 要らないなあ。だって音楽はこれまでたくさん聴いてきたから」
知性から垣間見える人生への慈しみ。精密にじっくり仕上げられた巧みな話術。そこかしこのユーモア。意外性のある曲を伴いながら、トークは変奏曲のように転調していった。
「14歳の時にソニーのトランジスタラジオでビーチ・ボーイズを聴いた」
と、春樹さんは言った。
私がスタジオの目の前で聞いた春樹さんの肉声は、若く未完成の香りがした。
青春の初々しさと儚(はかな)さ──。
フレーズの間合いが行間となり、その声の成分は、フラット化する現代に対する静かなアンチテーゼを感じさせ、表現者としての揺るぎない姿勢を物語っていた。