若い頃と、おじさんになった今とではっきり違うのは「“オモシロ”に付き合う時間」。若い人は目を皿のようにしてそれらを味わう。ところが大人はそんなことをする暇がない。学資保険のこととか、将来脱サラするために学校通ったりとかしなくちゃいけない。それに「若さ」はそもそも“劇的”が好きなもの。はっきりとしたストーリー、ビビッドな変化に感動する。というか“感動し時”だから案の定感動する。おろしたての初々しい舌には、チョコの味の劇的さはたまらない中毒性があるだろう。カレーぐらいのものでも「今は南インド系インスパイアカレーがモードの先端」とか一つのストーリーとして感動する。おじさんの解像度では、北も南もない、インドカレーは一つ。その違いは大したことじゃない。
蕎麦屋のカレーは別に劇的に美味しいわけじゃない。でも食べる。ダジャレも面白くて、感動したくて言ったり、聞いたりしてるんじゃないと、このごろわかるのだ。
この心理には、まだ名前が付いていない。面白いわけではなく、と言ってつまらないわけでもない、ぼんやりとある「おかしみ」。おもゆを飲むような淡さ。あれがなんなのか。読者のみんなも考えて欲しい。というか、考えチャイナさい。
※AERA 2018年9月10日号