だが、現実は甘くなかった。大学4年生のときに初めて司法試験を受けたが、結果は不合格。その年から3年連続で失敗した。

「3回目の受験が終わった後、袴田さんの第1次再審請求で、東京高裁が即時抗告を棄却する決定(2004年)を出したんです。まだ暑さの残る8月の終わりでした。私はまだ司法試験に合格していない身でありながら、居ても立ってもいられず、棄却決定の日に東京高裁まで行きました。そのときの記者会見で、小川先生が報道陣の前で号泣していたんです。その姿を見て、ここまで精魂込めて活動に取り組んで、弁護士が悔し涙を流すのか、と私は感じるものがありました。より一層、司法試験に立ち向かう気持ちにスイッチが入りました」

 そして05年。4回目の挑戦で司法試験の合格をつかんだ。

「受かったときは本当にうれしくて、同期の司法修習生に袴田事件のビラを配って、一緒に勉強しましょうと呼びかけたくらいです。同期からは、『戸舘は本当に袴田事件のことばかり言っていたよ』と、いまだにちゃかされています」

 2年間の司法修習期間を経て、07年9月に晴れて弁護士登録がかなった戸舘氏。同月、すぐに袴田事件の弁護団に入った。

「弁護士バッジをもらってすぐに、袴田さんに会いに東京拘置所に飛んで行きました。ところが、最初は袴田さんに面会を拒否されてしまいました。長期にわたる拘置生活が続いたことで『拘禁症状』が出て、弁護士にもお姉さんの秀子さんにも、面会拒否が続いていたんです。その後は2度面会することができましたが、その際も『私は神様だ』『もう袴田事件は終わった』などと言う状態になってしまっていました」

 08年3月、最高裁は特別抗告を棄却する決定をし、第1次再審請求はすべて棄却された。

 その翌月、弁護団は袴田さんの姉を請求人とする再審請求を静岡地裁に行い、第2次再審請求がスタートした。その結果、14年3月27日に歴史的な瞬間を迎える。

 静岡地裁は再審開始を決定。袴田さんは即日、東京拘置所から釈放されたのだ。逮捕されてから実に47年7カ月ぶりだった。

「即時釈放せよという異例の決定でした。決定的証拠とされた『5点の衣類』は捜査機関によって捏造(ねつぞう)された可能性があり、袴田さんは犯人ではない可能性が極めて高いとされました。そうしたなかで47年間も死刑囚として拘置所に置かれている状況について、裁判官は『耐え難いほど正義に反する』と表現しました。こうした表現が判決文に入ったことも異例です。

次のページ
検察による時間の引き延ばしは許されない