1966年、静岡県の旧清水市(現在の静岡市)のみそ製造会社で一家4人が殺害された通称「袴田事件」。みそ工場の従業員で元プロボクサーの袴田巌さん(87)に死刑判決が下されたが、冤罪(えんざい)を訴えてきた袴田さんに対して、3月13日、東京高裁が再審を認める決定を出した。弁護団の一員を務める戸舘圭之(とだて・よしゆき)弁護士(42)は静岡大学在学中に袴田事件を知り、弁護士を志した。どこにでもいる大学生が一念発起して司法試験に挑み、袴田事件弁護団として再審決定を勝ち取るまでの、激動の日々を振り返った。
* * *
戸舘弁護士は1980年、青森市で生まれた。袴田事件が起きた66年はまだ生まれておらず、現場の静岡県とは縁もゆかりもなかった。
「私の両親は青森県出身で、里帰り出産のような形で、私は青森市で生まれました。当時父親は裁判官をしていて、小さいころは宇都宮や仙台などを転々とする生活でした。上京したのは、私が5~6歳のころ。父親が裁判官を辞めて、東京で弁護士を始めてからでした」
小学校入学から高校卒業までは、東京・杉並区で暮らした。そして99年4月、静岡大学人文学部法学科に入学する。静岡大学を選んだ理由を、戸舘氏はこう振り返る。
「進学するなら国公立大学と思っていましたが、自分の成績で受かりそうなのは、琉球大か静岡大くらいしかなかった(笑)。静岡県にこだわりがあったわけでもなく、静岡大を受験したら運よく受かったので行ってみようかという感じでした」
人文学部(当時)の法学科を選択したが、法律家になろうとは思っていなかったという。
「当時は明確な目標などなく、文系だし、法科なら後でつぶしが利くだろうくらいの気持ちでした。完全なモラトリアムで、とりあえず、静岡へ自分探しの旅に出てみるかみたいな感覚でした」
そんな青年が、袴田事件を知ったのは大学3年生、20歳のころだった。大学の講義で扱われたことがきっかけだった。
「大学3年で渕野貴生先生(現・立命館大学法科大学院法務研究科教授)の『刑事法ゼミ』に入ったんです。渕野先生から『刑事法を勉強するんだったら小川秀世先生の講義は聞きなさい』と勧められ、その講義で初めて袴田事件を知りました」