●日本時代も台湾の一部
「気をつけて」
若者の声がした。台湾大学の大学院生、侯建呈(ホウチエンツェン)さん(24)だ。
侯さんら都市や農村と建築の関係について学ぶ台湾大学の大学院生5人は、都市の発展について研究するため昨年9月から基隆で調査しており、基隆に多数の防空壕があることを知った。その数は、基隆市がまとめた「基隆市年鑑」によると、約680カ所。詳しい内訳ははっきりしないが、日本統治期に構築されたものがほとんどである。
アジア太平洋戦争で連合国は、1944年10月の台湾沖航空戦から台湾への攻撃を本格化させる。軍事や物流の拠点都市だった基隆も当然ターゲットになった。この前年には神戸からの高千穂丸が基隆沖で米海軍の魚雷で撃沈されており、基隆に向けられた照準は徐々に狭められていた。軍都であればこそ、基隆に多数の防空壕が掘られたとみていいだろう。
5人のグループ名は「化被洞為主洞(フアベイドンウェイチュドン)」。意訳すると、防空壕を脇役から主役の座へ、といったニュアンスになる。メンバーの林佩儀(リンペイイ)さん(24)は日本統治期の構築物に対する「負の遺産」という位置づけにとらわれず、
「日本統治期の建物の中には台湾にプラスの影響を与えたものもあるし、設計やデザインの面から見て、美しいものがある。日本統治期は台湾の歴史の一部分で、その当時のことを知ることによって私たちはより深く台湾のことを知ることができる」
と話す。
●港湾都市として再興を
侯さんは「この活動には二つの意味がある」と話す。そのひとつは、防空壕の保存や、防空壕にまつわるエピソードの収集。そのいくつかを紹介しよう。
「2012年、密輸グループが闇物資を隠していた場所」
「戒厳令下、政府はこの防空壕に大陸反攻のための物資を保管し、真夜中に台湾全土に送り出した」
「牛肉麺の店があった場所」
1947年2月に国民党が民衆を弾圧した2・28事件では「官憲の手を逃れるため、防空壕に身を隠す人がいた」と記録された文献があり、こうした点は引用する形で取り上げている。