住職や母との関係、早逝した他の友人との関係など、他にもいくつもの屈折を経て、溝口は金閣を焼かねばならないと決意する。
冷静に読むと、相当におかしな小説だ。童貞を捨てようとして、そのとき、二度とも眼前に金閣の幻影が現れて失敗する。それを逆恨みして金閣に火をつける。要約するとそれだけの話なのだが、人間のコンプレックスが様々に乱反射して巨大な犯罪に至る過程が、三島の美文によって強い説得力で描かれていく。それはまた、有り余るほどの才能がありながら様々なコンプレックスを持った三島だからこそ成し遂げられた仕事だったのだろう。
先に掲げた背が低かったこと、身体的なコンプレックスがのちに三島をボディビルなどの肉体改造にのめり込ませる。それはよく知られた話だが、私は何よりも、三島の戦争経験の欠落の方が、後年の行動の起点としては大きかったのではないかと思う。戦後派と呼ばれる作家群の中で、ほぼ三島由紀夫だけが戦場も外地(植民地)での経験もない。
三島は学徒動員で入隊する直前に発熱し、医師の問診に過剰に反応して兵役免除となった。このことは、戦前戦後を通じて、国粋主義を貫き、天皇を愛した三島にとって最も大きなコンプレックスとなったことは想像に難くない。
もちろん三島ほどの天才の自死を一つの理由だけで解き明かそうとするのは困難だ。しかし『金閣寺』にはすでに、その三島の巨大すぎる屈折のすべてが表れている。
三島の自死は多くの謎を含むが、それでも三島作品の文学的価値は損なわれない。
日本文学の初期、ロマン主義か自然主義かの対立があった。尾崎紅葉、泉鏡花の路線は、美文調で美しいが社会性に欠けるきらいがあった。田山花袋に象徴される自然主義は、やがて私小説の隘路(あいろ)に迷い込む。しかし三島由紀夫という天才によって、この長い相克が止揚される。三島作品が日本近代文学の極北と呼べるのは、故あってのことだ。