三島由紀夫が戦後の日本文学を代表する作家であることは論を俟たない。1970年に陸上自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺するまで、実に多くの作品をこの世に残した。その比類なき才能の源泉は、多々あった“コンプレックス”だともいわれる。劇作家の平田オリザさんは、三島の代表作『金閣寺』の根底には、三島特有のコンプレックスがあったと説く。(朝日新書『名著入門』から一部を抜粋、再編集)
【秘蔵記事】ボティービルにいそしむ三島由紀夫の写真が掲載された雑誌
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二〇〇〇年代初頭のこと。フランスでの仕事が多くなってきた時期に、彼の地の新聞記者からよく、三島作品との違いを聞かれて閉口したものだった。日本の戯曲と言えば三島氏のものしか知らないフランスの批評家や記者たちに、私の作品は奇異に映った。私は、「三島氏が日本最高峰の劇作家であることは間違いないし、それと比較していただくのは本当に光栄だが、日本の劇作家とひとくくりにされるのは心外だ。作家は一人ひとり違うのだ。私と三島氏の共通点は背が低いことぐらいだ。そして私が三島氏に勝っているところがあるとすれば、私の方が三センチ低いという点のみだ」と答え続けた。
いや、もう少し正確に言うなら、次のような言葉も付け加えた。
「三島作品は、日本と日本人が西洋文学に追いつき追い越せと努力を重ねた、その結晶のような作品だ。題材や内容は日本的なものが多いが、その論理構成は極めて西洋的で、翻訳をしてもそれが崩れることはなく、すなわち皆さんに読みやすいものとなっている。私の作品は内容は極めてグローバルで、多言語の舞台も扱っているが、表現形式が日本的なのだと思う。私の多くの戯曲は、皆さんになじみのある題材を、日本人の思考様式に乗せて発話させている」
三島由紀夫はすぐれた小説を多く残したと同時に、劇作家としてもめざましい活躍を遂げた。ただここでは、やはりその代表作である『金閣寺』を取り上げたいと思う。
日本海沿いの辺鄙(へんぴ)な貧しい寺に生まれた主人公溝口は、僧侶である父から、「金閣ほど美しいものは此世(このよ)にない」と聞かされて育った。身体が弱く重度の吃音(きつおん)でもあった溝口は強いコンプレックスの中で成長していく。やがて父の勧めもあって、彼は金閣寺に修行に入ることとなる。