第2作「人間の証明」公開初日。東京・日比谷の映画館には朝早くから行列ができた(1977年) (c)朝日新聞社
第2作「人間の証明」公開初日。東京・日比谷の映画館には朝早くから行列ができた(1977年) (c)朝日新聞社
この記事の写真をすべて見る
「戦国自衛隊」撮影に使用した戦車が登場(1979年) (c)朝日新聞社
「戦国自衛隊」撮影に使用した戦車が登場(1979年) (c)朝日新聞社

「読んでから見るか、見てから読むか」のコピーが映画館と書店を席巻した時代。

『角川映画1976─1986 増補版』(角川文庫)著者が解説する。

 小説が映画化されることは昔からあった。出版社が映画部門を持つことも、岩波書店の「岩波映画」のように前例がある。

 映画の主題歌のヒットも、大規模な宣伝も、新人女優の公募も、映画界では昔からあった。

 ひとつひとつを見れば、「角川映画」には、何ら新しいものはなかった。アップルのiPhoneが出たときも、個々の技術に独創性はないと批判されたが、それと同じだ。既存のものを統合して「新しいもの」を作った点で、角川映画は、アップルと同じくらい、ユニークだったのだ。

 角川書店の二代目社長・角川春樹が映画製作に乗り出したのは1976年の「犬神家の一族」からだ。しかし角川書店が「映像化によって原作の本が売れる」ことを実感したのはその7年前の69年だ。この年のNHK大河ドラマは「天と地と」で、海音寺潮五郎の原作は角川書店から出ていた。当時、同社は経営不振に陥っていたが、『天と地と』がベストセラーになったことで立ち直った。

 翌70年、角川は無名の作家エリック・シーガルの『ある愛の詩(うた)』の日本での版権を取得し翻訳出版すると、映画が大ヒットしたので、翻訳小説としては異例の100万部を超えるベストセラーとなった。

 テレビドラマや映画がヒットすればその原作も売れる──そんなことは出版界の人間なら誰でも知っていた。だが、自分で映画化しようと考え、実行した出版人はいなかった。

 角川春樹はそれをやってのけた。そして成功した。

 角川映画が生んだ最大のスターとは、薬師丸ひろ子でも原田知世でもなく、角川春樹その人だった。

 あの時代、そしていまにいたるまで、映画プロデューサー、あるいは出版社社長で角川春樹ほど知名度のある人はいない。講談社や小学館の社長の名は出版業界では知られていても、一般の人は知らない。しかし、角川春樹は有名だった。その点でも、角川はアップルのジョブズに先駆けている。

次のページ