そんな時代に登場した角川春樹事務所は、その名の通り「事務所」しかない映画製作会社だった。黒澤明や石原裕次郎や三船敏郎たちのプロダクションとの根本的な違いがそこにあった。それは、おそらく、角川が「出版社」だったからだ。

 出版社は大手ですら、作家を専属で抱えないし(漫画では専属制があるが)、印刷・製本は他社に外注し、流通も販売も他社に委ねる。オフィス以外は倉庫があるくらいで、「机と電話があればできる商売」と言われていた。角川はそれを映画作りでも応用したのである。撮影所を借り、監督以下のスタッフも俳優も一作ごとの契約で、配給会社も映画館も一作ごとに条件のいい所を選んだ。これも、自社工場を持たないアップルと似ている。

●テレビを見た後劇場へ

 角川映画は大量にテレビでCMを打ったことで大成功し、同時に批判された。映画会社にとってテレビは客を奪った憎むべき敵だった。そこに金を払って宣伝するとはけしからんという、単なる感情論だった。しかし、角川が成功すると、各社ともテレビでCMを打つようになった。

 公開から1年後、次の新作公開時に合わせてテレビで放映したことも、映画館からは反発を受けたが、続けた。結果として、テレビで映画を見た人が映画館へ押し寄せた。ビデオ化も早かった。既存の映画会社が映画館主に気兼ねしてできなかったことを角川映画は次々と断行した。

 本も映画もヒットしていたが、作品ごとの映画の観客動員数と原作の実売部数を比較すれば、常に映画のほうが多かった。文庫を売るために作った映画のほうが、客は多かったのだ。その作家の他の本も売れることで、全体として利益を出していた。

 そのビジネスモデルに綻びが生じてきたのが、80年の「復活の日」だった。製作費22億円に対し、配給収入が23億9500万円。配給会社が手数料を取るので、角川へ入ったのは、20億を割っていたはずだ。角川文庫の小松左京作品がその赤字を埋めるだけ売れれば総体としては利益が出たが、横溝正史や森村誠一ほどは売れなかった。

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