貧乏旅行で愛用したリュックを背負い、三四郎池のほとりに立つ青木さん。好奇心のおもむくまま動けるように荷物は最少限(撮影/写真部・植田真紗美)
貧乏旅行で愛用したリュックを背負い、三四郎池のほとりに立つ青木さん。好奇心のおもむくまま動けるように荷物は最少限(撮影/写真部・植田真紗美)
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片手でアクロバティックな回転技を披露する藤本さん。久々だったが、注文に応じて笑顔もばっちり決めた(撮影/写真部・植田真紗美)
片手でアクロバティックな回転技を披露する藤本さん。久々だったが、注文に応じて笑顔もばっちり決めた(撮影/写真部・植田真紗美)
少年の頃、星の観測や写真を撮る趣味はなかった。「今でも星座はよくわからない」と笑う。東京都三鷹市の国立天文台にある研究室で(撮影/写真部・大嶋千尋)
少年の頃、星の観測や写真を撮る趣味はなかった。「今でも星座はよくわからない」と笑う。東京都三鷹市の国立天文台にある研究室で(撮影/写真部・大嶋千尋)
「お話をつくる人になりたい」と言うと「それはサッカと言うのよ」と母が教えてくれた(撮影/岡田晃奈)
「お話をつくる人になりたい」と言うと「それはサッカと言うのよ」と母が教えてくれた(撮影/岡田晃奈)

東大は、すぐれた功績を上げた個人や団体に総長賞を授与している。昨年度の受賞者たちは何が違うのか、その秘密に東大改革のカギがある。

■青木翔平さん(28)
大学院工学系研究科博士課程修了
「異文化と衝突 途上国支援の道が見えた」

 工房の作業台に残された削りかけの機械部品。

 青木翔平さんは、思わず苦笑いした。男子生徒に「この部品、削っといて」と言い残してその場を離れ戻ってみたら、生徒は家に帰った後だった。

 3月に博士課程を修了した青木さんは、西アフリカ・ガーナの工業高校で技術を教えていた。貧困問題が根深く残るガーナの課題は、雇用を生み外貨を稼ぎだす製造業の育成。青木さんはこの地で起業家や技術者を育てるビジネスをゼロから立ち上げようとしている。

「今日までに」と言ったことが明日、あさってになるのはざら。しばしば起こる停電の間は扇風機も止まり、汗だくで作業する。日本の常識は通用せず、何事も予定通りには進まない。

 時間効率をとことん追求し、日本の受験戦争を勝ち上がった優等生が集まる東大の中にずっといたら、とても理解できない世界かもしれない。しかし、青木さんは「こんなもの」とさらりとかわす。

●アジアを中心に40カ国

 東大に入ったのは、航空宇宙工学を学べるからだった。幼い時からの夢は宇宙飛行士。鳥取県立米子東高校から理科一類に現役合格した。何の障害もなく夢に邁進するかに見えた青木さんを変えたのは、ある男性の言葉だった。

 2年生の春休み、中国へ貧乏旅行に出かけた友人の話に触発され、リュック一つでアジア4カ国を回ったときのこと。タイ北部の山間の村で、20代の男性宅に泊めてもらった。将来の夢を問われ、「宇宙飛行士になって宇宙開発の仕事をしたい」と答えたら、「何それ? どっちも知らない」と言われた。

「衝撃でした。欧米の人に話すと『かっこいいね』と言ってくれるし、最先端の研究をして科学の発展に貢献できるという自負があったのですが、それが粉々に砕かれました」

 航空宇宙工学の世界とは無関係な人たちも世界にはたくさんいることを知った。もっと広い世界を見なければ。長期休みのたびに貧乏旅行にでかけ、アジアを中心に40カ国ほどを旅した。いつしか、途上国のために貢献したい、と思うようになった。

 では、具体的には何をすべきか、悩み続けた。修士課程に進んで最初の夏休み。大手IT企業でのインターンの際、飲み会の席で進路の悩みを打ち明けたら、少し年上の男性にガツンとやられた。

「いい年なんだから、モラトリアムもいい加減にしろよ」

 カッとなって言い返したものの、「その通りだ」と感じた。

 一人暮らしの部屋に丸2日間こもり、A4コピー用紙にボールペンで「将来何をしたいのか」をひたすら書き出した。紙をとじこんだクリアファイルが満杯になるころ、答えが出た。BOPビジネスがやりたい──。

●「パイオニアになれる」

 BOPビジネスとは、途上国の低所得者を対象に、貧困が引き起こす社会的な課題を解決するため、もうけを確保しながら続けていく事業だ。場所は西アフリカ。アジアなどに比べて在留邦人が少なく、「パイオニアになれる」と考えた。

 とはいえ、いきなり一人で現地に乗り込んでも何もできない。そう考えて日本のNPOのインターンとなり、バングラデシュの農村で理科教材を作る事業に参加。途上国の人たちとの共同作業の経験を積んだ。

 修士課程を終えた春休みに西アフリカ8カ国を初めて回り、ガーナの工業高校にある市民工房「ファブラボ」にわたりを付け、ここに何度か滞在して技術指導をしながらビジネスプランを練った。

 そんな青木さんを冷ややかに見つめる人もいた。活動の準備のため、修士1年のときに1年休学したときは、「あいつは永遠の自分探しの旅に出た」と言って離れていく友人もいた。

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