皆が戸惑っている中、訪問する回数は1日1回では済まなくなる。3~4回のことはザラ。夜中に呼ばれることもザラ。この患者さんは、実家に帰って3日目の朝の9時に息を引き取られた。パートナーも弟も母も、その死を見届けられた。その死は「×」ではなく「○」に近い所に届いた、と思った。たった3日のかかわりだったのだが。

■まぁるい死

 臨床はスポーツと言ったが、臨床は演劇と言ってもいいかも知れない。

 臨床で働くわれわれはハッピーエンドを求めやすい気性だが、そこはなかなかの至難の道。性別も体格も、病名も転移具合も職業も家族も皆それぞれ、主義も宗教も死生観も。終末期に生じる痛みの強さも、発生する火山症状も皆それぞれ。その人たちに手を差し伸べるには相当の覚悟が要る。

 平和な時代でも、死はいろんな理由でまるくなんかならない。とんがりやすい。

 そんな死がなんとかまるくならないか、と医療者は思い日々の実践に明け暮れる。臨床にいると患者さんの力で、また家族の祈りの力で、医療者の手助けで、死がまぁるくなっていくように見えることもある。まるっかないまぁるい死。死はまぁるくもなると知っていることが、自分の死の時にも、死がまぁるくなることに繋がっていってほしいなと思う。そう思いながら『まぁるい死』(朝日新聞出版)を書かせてもらった。もうすぐ本屋さんに出回ります。

『まぁるい死』は、ぼくの41冊目の本(*編集部による)らしい。なぜ臨床のことを書くのか? 県外においそれと出ることもできないホスピスケアの医師がいつ書くのか?と聞かれることがある。

 いつ? は隙間の時間。いつも病室にいるわけでもなく、いつも患者さんや家族と話しているわけでもなく、いつも死亡診断書を書いているわけでもない。時間はどこかにある。例えば日曜日の裏山散歩で歩き疲れたあと、とか。

 なぜ書くのか? 臨床で放たれた言葉が新鮮に響き、心に届くことがある。用意されたのではなく、形式的なものでもなく、形骸化したのではない言葉。魚のような、鳥のような、蝉のような、カエルのような言葉が、臨床の流れの中でピョンと飛び出してくることがある。言葉ってすごい、と知る。

 対して、自分の頭の中の言葉は陳腐でうすっぺらで硬直し、ありきたっている。臨床の中で出会う言葉の鮮度のよさに突かれて、つい書き綴(つづ)らせてもらって来たんだろう、と思う。

週刊朝日  2019年11月15日号より抜粋